書評・エッセイ

2012年5月号掲載

新発見作も付して

――西村賢太編『藤澤清造短篇集』

西村賢太

対象書籍名:『藤澤清造短篇集』
対象著者:西村賢太編
対象書籍ISBN:978-4-10-135617-4

 昨年の『根津権現裏』に続く、新潮文庫の藤澤清造シリーズ第二弾である。
 前書は幸にして、そこそこ江湖に迎え入れられるかたちとなった。正直なところ、予想をはるかに上廻る好評を得ることにもなった。
 しかしそれが五百枚にのぼる長篇であれば、今度は短篇の方の真価にふれてみたい要望が起こるのも、至極当然な次第であろう。
 周知のように、大正期の文芸作品は主に短篇を中心として、その百花繚乱ぶりを示している。無論、大半は掲載誌の紙幅の制約による側面はあるにしても、やはり個々の作家の真髄は、それら短篇作品に如実にあらわれているところが多い。
 藤澤清造も、また然りである。
 なればこそ、この十五年間を清造の“押しかけ歿後弟子”を自任し、それを唯一の矜恃として生きてきた私たる者、前書の校訂後には確たる要請も受けぬまま、すぐとこの第二弾の準備に取りかからざるを得なかったが、この度も同文庫編輯部の英断が再び下されたことは、何んとも有難い限りであった。
 そして今回は、その準備段階において、誠にこの上ない僥倖も訪れた。
 毎年恒例の、明治古典会による大市の入札会に、清造の自筆原稿三点が突如現われたのである。
 いずれも短篇であるところのその三本は、私のこれまでの博捜でも、題名すらキャッチし得なかった未見の作であった。
 そしてこれは、初出と推測される大阪の夕刊新聞自体、今のところどの公共機関にも収蔵の確認が取れてはいないので、その生原稿でしか内容を読めぬ作と云うことにもなる。
 一体に清造は、他の大正期作家に比して、もともと書簡にせよ草稿にせよ、極端なまでにその自筆類が古書市場に出てこない作家である。
 漱石や芥川は、金さえあれば肉筆物はいつでも容易く入手することができる。それは少し下って太宰や三島にしても同様である。が、清造のようにたださえ寡作な上、生前はもとより、死後も長いこと正当な評価を得られなかった作家は、まず往時の古書市場で原稿を商品視されぬから、保存の対象になり得ぬところがあったのである。それだけに、もし現在これらを入手しようとすれば、当時の編輯者宅に奇跡的に眠っていた、いわゆるウブ口ものの出品を待つより他はない。実際、かの大市でも清造の原稿が出てきたのは、八年前のことにまで遡るのである(無論、これは私が無事に落札したが)。
 それが今回、完全揃いのかたちで三点も出てきたのだから、私の興奮は云うまでもなく、甚だ激しいものがあった。
 まさに千載一遇のことであり、二度このような機会も巡ってこないであろうことから、私はこの落札に関してはキ印の札――即ち、他が絶対に追い付けぬ程の高額札で臨む次第と相成った。
 結果は、多少突き上げられて、三点で計四百四万円での落札となったが、とあれ入手できたことには、心底からの安堵を覚えた。もし、これをみすみす取りこぼすような失態を犯せば、私は清造の歿後弟子なる看板を、即刻おろさざるを得なくなっていたところである。
 が、これもよくよく考えてみれば、結句(けっく)はやはり芥川賞のおかげなのである。
 先の『根津権現裏』復刊も、すべては同賞からの余恵であることは、すでに何度か筆にものせている。今回は、更に直接的に、かの受賞を機に得た印税が、該原稿の入手をよりスムースなものにしてくれた。
 となれば、この三原稿は本来なら全部私の方の『清造全集』で初公開したいところだが、せめてそのうちの一作は、それに先んじて本書に収録する義務があるようにも思われる。本書もまた、元を辿ればかの一連の余恵の流れにあることは否めないからだ。
 その「敵の取れるまで」と題された小品を、一種のボーナス・トラックとしてお楽しみ頂ければ幸である。

 (にしむら・けんた 小説家)

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