書評
2012年5月号掲載
京都、西の「聖家族」
――古川日出男『ドッグマザー』
対象書籍名:『ドッグマザー』
対象著者:古川日出男
対象書籍ISBN:978-4-10-306074-1
「冬はただ寒いだけだ。それ以外に何の証しも持たない。夜だから息が白いのが見えると思ったけれど、それも時々だ。吐く息がそんなふうに見えるためには見える場所にいる必要がある。ここは夜の真ん中だ。そして色彩を奪うのが正しい夜だ」。 古川日出男の新著『ドッグマザー』の冒頭。この文章を読んで、おや、と思う。古川日出男の小説をずっと読んできた者なら、この書き出しに少し違和感を覚えるのではないか。 古川は近年、小説言語の律動をずっと追求してきた。やや単純化して言えば、語彙を意図して反復することで、独自のリズムを作り出してきた。朗読すること、みずからの身体を経由して小説を音声として発することを、小説を書くことの根源に据えてきたのではないかと思う。しかし、一読、今度の小説ではそうした小説の音声的側面は後退しているように感じた。同じ音の繰り返しが少ない。では、その代わりに何がフィーチャーされているのか。 最初、読者にそれは明かされない。わからない。 三部から構成されている。第一部が「冬」、第二部が「疾風怒濤」、第三部が「二度めの夏に至る」。この構成で、もっとも重要な点は、第三部だけが2011年3月11日以後に執筆・発表されていることだろう。 第一部から読み始めた人(私もその一人)は、「博文」という名の老犬を連れた主人公(「僕」)が、養父亡きあと、西へ向かい、京都に到着するくだりを読んで、いつもの古川日出男だと思うはずだ。古川の小説に頻出する動物たち(とりわけ馬や犬)、天皇への言及、東京・錦糸町を離れ、京都へ到るロード・ノヴェルの雰囲気も申し分ない。そして京都で住み込みで働き始める「僕」と「博文」。そうこうするうち「僕」はモデルになる。端正な顔立ちと鍛え上げた肉体を武器に「撮影され」る仕事を始める。そして「博文」との別れ……。第二部で、「僕」は相変わらず京都にいる。犬はもういない。だが、女たちに指名されてセックスする仕事をしている。古川の小説には珍しいことだが、ポルノグラフィックな描写もふんだんに織り込まれている。この段階で、読者は、古川が何を目指しているか、気づかない。カッコいい男が京都で女たちを性的に悦ばせている、あらすじだけ書けば凡庸な要約になる。 状況が変わるのは、二百頁あたり。ある宗教団体と、教団トップの「院主」の話が出てくる。「僕」はその教団を背負う女教祖「院主」と、中心的存在である二人の若者(「一月輪(いつわ)」という弟と「日輪子(ひわこ)」という姉)と知り合う。 第三部では「僕」は完全にその宗教団体に接近している。「院主」と果てしない交接を繰り返し、「一月輪」のことを弟のように感じている。「僕」は、何をしているのか。「聖俗。僕の一つの意思は、それだ。僕はここ京都で聖家族を作る」。読者はこの言葉によって膝を打つ。 古川日出男の大傑作『聖家族』が出たのは二〇〇八年。古川はこの巨大な小説を書きあげたあと、その壁に自ら戦いを挑むようにして小説を書き続けてきた。たとえば、3・11以後に発表された『馬たちよ、それでも光は無垢で』では、『聖家族』の主要な登場人物を、突然、小説の中に導入することで、『聖家族』を改変してみせた。『ドッグマザー』では、西=京都で「聖家族」を作ろうとしているのだ。東京の湾岸部には「俗家族」を抱えつつ(「俗家族」の母親は、震災の影響で液状化した地面や建設中のスカイツリーを描写して、3・11以後を生きる自分や「俗家族」を強調する)。 小説『聖家族』では、東北六県を移動する異能の兄弟と、彼らを生んだ狗塚家の系譜が古川独自のリズミックな文体で語られていた。つまり、東北の「聖家族」なのだ。対して、『ドッグマザー』では、西の「聖家族」が語られている。いかがわしい「院主」は「僕」の前世を透視し、ある種の超能力によって「聖」を冠した家族が、そして教団ができあがる。ただ、その先に何があるのか、私たちには依然としてわからない。途中、「教団史」を「国家史に接続させる」と日輪子が口走るが、その真意は隠されたままだ。そしてラストに用意された「日祭り」の大団円――。 最後の最後、この小説の最後の一行によって、「僕」がいったいどこへ向かっているのかが、これ以上ないほど明瞭に示される。読者は息を呑む。そこで小説は終わる。最後の一行をここに書きつければ、小説の魅力を大きく損なうことになる。だから書かない。書かないが、この最後の一行によって、小説は一気に飛翔する。古川日出男はまた一歩、前に進んだ。そんな確信がある。
(じんの・としふみ 文芸評論家)