ザ・モンキーズ、インベーダー、ハワイ5-O、ディーン・マーティンなど、懐かしいテレビドラマや歌手の名前が次々に出てくるのでわくわくしてしまった。忘れていた一九六〇年代の雰囲気が甦ってくるからだ。ただひとつだけわからないのは、主人公の私立探偵ドックが耽るマリワナ。“おまえいつになったら、その大麻頭のパラノイアから正気の世界に戻るんだ”と天敵の刑事にいわれる始末。でも『V.』『競売ナンバー49の叫び』『重力の虹』のピンチョンの主人公だもの、パラノイアは大歓迎、性と麻薬にみちたヒッピー運動盛んな騒然たる時代を背景にしているならなおさらだ。
私立探偵ドックの自宅に元恋人シャスタが訪ねてくる。不動産王のミッキー・ウルフマンと不倫関係にあるが、ウルフマンの妻からウルフマンを精神病院にいれる悪だくみをもちかけられ、どうすれば苦境を逃れられるかの相談だった。
翌日、ドックが自分の事務所にいくと黒人の依頼人が待っていた。タリクと名乗る男は、刑務所で知り合った白人のグレン・チャーロックを探してほしいという。おれに借りがあるのに返さずに行方をくらましたという話だった。グレンの仕事をきくとウルフマンのボディガードをしているという。ドックは早速ウルフマンが開発している建物に赴くが、何者かに殴られて昏倒してしまう。気がつくと刑事がいて、そばには射殺死体。グレンだという。いったい何が起きているのか。
これはまだ序の口で、このあとミュージシャンの行方探しも加わりメインの事件に絡みだす。『LAヴァイス』は私立探偵を主人公にしたハードボイルド・ミステリである。伏線も張ってあるし展開も予想外。だがその語りはクールでポップでユーモラスではあるが、どこか脱力的で冗漫。いや冗漫というよりピンチョンらしくあふれんばかりの情報を次々に提示して、ひたすら拡散していく現代というモザイク状の細密画を描いているというべきか。カラフルで目が眩むようなディテールにみちていて、次第に事件そのものの輪郭が失われ、事件の真相も犯人もさして重要でなくなってくる。
私立探偵小説は純文学的である。純文学の作家が私立探偵小説の形式をふまえると具体から抽象へと至る。失踪のテーマを押し進め、〈世界〉と〈自己同一性〉の探究の物語にする。それが安部公房の『燃えつきた地図』であり、ポール・オースターの「ニューヨーク三部作」だろう。私立探偵が白日夢を見るというリチャード・ブローティガンの『バビロンを夢見て――私立探偵小説1942年』もその流れにある。
私立探偵小説が迷宮趣味にもってこいなのは、この自己同一性を失うことにあるが、大麻で朦朧としてもドックはそんなことにはならない。ただ事件そのものが何だったのかという感想はうかぶ。チャンドラーの『大いなる眠り』が映画化されたとき(『三つ数えろ』)、監督のハワード・ホークスが運転手を殺したのは誰なのだとチャンドラーに聞いた話があり、チャンドラー自身“わからない”と答えた逸話がある。それほどではないにしろ、本書にも混沌とした手触りがある。しかしこれが意外と面白く、愉しく心地よい。
原題は「固有の瑕疵」。海上保険における“貨物や財産にそもそも備わった、外力なしに自然に変質・損傷する性質”のことだが、ドックはこんな風に位置づける。“過去に通じる門の扉を見つけたようなものだ。門衛もいない、なぜかと言えば、最初から衛る必要などないから”、“過去へ帰っていく行為そのものに、ギラギラした不明確さのモザイクが始めから埋め込まれていた”のではないかと。つまり過去を探り、過去へと帰っていく私立探偵の不明確さのことであり、それを物語る小説そのものに「内在する欠陥」があるという。
いやいや、そこまで探偵や小説の批評にこだわる必要はない。前述したように六〇年代のサブカルチャーが満載で、特に全篇で語られる様々な映画論が秀逸。日本の怪獣映画『三大怪獣 地球最大の決戦』が『ローマの休日』のリメークであると力説したり、映画マニアがニヤリとするパラノイア的な見方を披露していく(しかしなんと説得力のある妄想か!)。ピンチョンの苦手だった人にお薦めしたい小説である。
(いけがみ・ふゆき 文芸評論家)