書評・エッセイ

2012年5月号掲載

「伝」という言葉に込められた思い

――笹沢信『ひさし伝』

村田雅幸

対象書籍名:『ひさし伝』
対象著者:笹沢信
対象書籍ISBN:978-4-10-332071-5

『ひさし伝』とは、ずいぶんとシンプルなタイトルだなあ――。テレビに芝居に小説、そして社会的な発言まで、ジャンルという枠を軽々と越え活躍した〈知の巨人〉の人生をたどるのなら、もう少し大きく構えた書名でもよかったのではないか? 本を開く前のそんな印象はしかし、読み進めていくうち徐々に変わっていった。ああ、そういうことか。やがて気づかされるのは、「伝」という言葉に込められたであろう、著者の思いだった。
 どうやら笹沢さんは、厳密な意味での「評伝」を書こうとしたのではないようなのだ。井上さんのお気に入りだった『日本国語大辞典 第二版』で「評伝」を引けば、こうある。
〈その人についての批評をまじえながら書かれた伝記〉
 元新聞記者で、現在は山形で出版社を営む笹沢さんは、ここでは批評を試みていない。〈ひさしという豊穣の沃野〉を前に、批評をするなんて畏れ多いと感じたのだろうか。確かなのは、井上さんが何を思い、どう生き、どんな作品を残したのかを後世に伝えたい、との祈りにも似た思いが、本書にはあふれていることだ。ならば、「伝」という一字こそふさわしい。笹沢さんは、井上さんの発言や作品、さらには、ゆかりの作家や評論家、研究者らの言葉、文章までをも丹念に調べ上げ、〈ひさしワールド〉に迫ろうとする。
 たとえば、平成十二年に故郷・山形県川西町で開かれた「生活者大学校」の講演で井上さんが明かした、テレビ人形劇「ひょっこりひょうたん島」の秘密から。
〈あの登場人物たちはみんな死んだ人たち、死んだ子供たちなのです。(略)親たちの生き方を根本から批判して、新しい時代の人間関係を作るというルールを考えていたのです。議論はするけど喧嘩はしない〉
 ブラウン管に映し出された垂れ目眼鏡の「博士」の顔に、五歳で父を亡くし、思春期を児童養護施設で過ごした井上少年の悲しげな顔が重ならないか。
 自伝的青春小説『花石物語』の文庫解説(川本三郎)からは、憲法や平和問題について、決して声高には主張せず静かに語り続けた井上さんを象徴する、こんな部分を引用する。軟弱な主人公・小松が母を守るため、ある行動を起こす場面。
〈小松青年が勇を鼓して無法な船員に殴られかかっていく姿も感動的である。(略)井上ひさしには「正義」は、ぶざまな形でしか語れないのだというある諦めがある〉
 笹沢さんが、自身の“読み”に加え、さまざまな人の“目”を借りながら浮かび上がらせた井上さんの思いは、実に多様だ。生まれ育った東北が、中央から多くを奪われ続けてきたことへの憤り。大きなものを「笑い」で矮小化させ、権力と戦おうとした決意。観客の平凡な一日を特別な一日に変えるため、〈初日を恐れず、赤字を恐れず〉芝居を書いた熱情……。新たな井上像を打ち立てようなどとは気負わず、あくまで一読者の視点で近づいた。そのおかげで読者は、井上さんの息づかいをごく近くに感じることができる。
 そして本の中盤以降は、「伝」という言葉の奥深さに、改めて向き合うことになる。
〈あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ〉(「父と暮せば」)
〈いつまでも過去を軽んじていると、やがて私たちは未来から軽んじられることになるだろう〉(「東京裁判三部作」チラシ)
〈あとにつづくものを/信じて走れ〉(「組曲虐殺」)
 そうだった。井上さんは自身を、誰かがどこかで「思い残した」ことを伝える「リレー走者」の一人だとも考えていた。
 幸せな未来とはおそらく、過去を懸命に見つめた先にうっすらと見えるものなのだ。この本が浮き彫りにした井上さんの人生に、自分の生き方を問われたような気がしている。

 (むらた・まさゆき 読売新聞文化部記者)

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