書評

2012年6月号掲載

嘘のない人生はない

――リュドミラ・ウリツカヤ『女が嘘をつくとき』(新潮クレスト・ブックス)

中島京子

対象書籍名:『女が嘘をつくとき』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:リュドミラ・ウリツカヤ著/沼野恭子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590095-3

 女の嘘について、リュドミラ・ウリツカヤは「何の意味も企みもないどころか、何の得にさえならない」と定義している。女は「ひょいと、心ならずも、なにげなく、熱烈に、不意に、少しずつ、脈絡もなく、むやみに、まったくわけもなく嘘をつく」とも。
 これには異議を申し立てる人もいるかもしれない。女だって、見栄を張るために嘘をつくし、女の結婚詐欺師もいるではないか。しかし著者はそういう議論をしたいのではないのだろう。人生にたびたび立ち現れる小さな嘘、ほとんど意味をなさない、なぜつくのかもよくわからない、それなのに強烈な印象を残す不思議な嘘を、ウリツカヤは「女の嘘」と名づけたのだ。自己顕示欲に満ちた、理由のはっきりした、ある意味で英雄的な、マッチョな嘘と対比させる概念として。
 本書には六篇の短篇小説が編まれている。それぞれ、嘘をつく女が登場するのだが、「女の嘘」の聞き手だけが同一人物という設定になっている。聞き手の名前はジェーニャで、最初の一篇には二歳の息子の母親として登場する。ジェーニャは狂言回し、聞き役ではあるが、ほんの数行の描写で、彼女がたいへん悩ましい恋愛の渦中にいたことが明かされる。二番目の短篇中では、彼女は二児の母になっている。このようにして、六篇の中でジェーニャは年をとっていく。
 流れるのは、そこそこ長い時間であり、ジェーニャの家族構成や仕事の内容なども、変化する。彼女自身を見舞った人生の紆余曲折は、いくつもの「女の嘘」の背景に、あるいはスパイスのように描かれる。けれど、読み進むうちに、それなりにいろいろあったジェーニャの人生が、どっしりと読者の記憶に根を下ろしてしまうのがおもしろい。「女の嘘」の数々は、背景やスパイスへと後退するわけではないが、時間を追うにつれて、ジェーニャの人生のスケッチとしての役割を持たされていくのが印象的だ。
 母親、少女、思春期の娘、老女教師、売春婦――。彼女たちは勝手な嘘をつく。たしかにたわいないけれど、罪がないとばかりも言えない。ついた本人に邪気がない分、嘘を信じた人には傷も残るからだ。けれども嘘はそれぞれ、なんとはなしに魅力的である。
 人はなぜ嘘をつくのか。という大問題に踏み入ろうとは私も思わないし、著者もそこに明確な答えを出そうとは思っていないようだ。ただし、読んでいると「女の嘘」には、ある共通の動機めいたものが浮かび上がってくる。「打算も、利益も、謀を企てようなどというつもりも入り込む余地はない」「白樺やミルクやマルハナバチと同じ自然現象のような」「女の嘘」は、嘘をつく彼女たち自身を救う物語なのである。他人からはそう見えなくても。物語じたいはなんとも救いがたいものであっても。ほんのひとときのまやかしであっても。
「自然現象」とウリツカヤは書いたが、こうして考えてみると本書で取り上げられたような「嘘」は、じつのところ、私たち自身の人生に常に存在するのではないだろうか。多かれ少なかれ、人は小さな嘘をついて、嘘に支えられて生きている。たわいのない、しかし時に心奪われるほどの魅力を放つ嘘がなかったなら、人生はもっと退屈で、生きづらいものになりそうだ。嘘をつく本人にとって救いになるだけではない。実際、最初の一篇「ディアナ」の中で、友人の大嘘の虜になったジェーニャは、「人生の『大惨事』とも言える忌まわしい出来事を一度も思いださなかったのだ」「あんなレンコンみたいなレンアイ、もうたいして気にもならない」と独白する。
 つまり「女の嘘」というのは、あれだな、小説だな、と私は思った。人々は大昔から、フィクションを味方にして、心の糧にしたり、ひとときの慰めとしたりしながら、人生をやり抜いてきたわけだ。
 だから、「歌のような、お伽噺のような、謎めいた」「女の嘘」も、(著者が「序」であきらかにしているように)オデュッセウスの英雄譚のごとき「男の嘘」にひけをとらない、小説の起源なのである。

 (なかじま・きょうこ 小説家)

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