書評・エッセイ

2012年6月号掲載

『トガニ』刊行記念特集

絶望するにはまだ早い

――孔枝泳著、蓮池薫訳『トガニ 幼き瞳の告発』

乃南アサ

対象書籍名:『トガニ 幼き瞳の告発』
対象著者:孔枝泳著/蓮池薫訳
対象書籍ISBN:978-4-10-505553-0

 まず、どうしても最初に頭に入れておかなければならないことは、この物語が実話をもとに描かれているという点だ。聾学校の教職員らによる生徒への性的虐待事件。そんなことが今の時代に、実際に起きていたと考えるだけで戦慄を覚えるし、驚愕せずにいられない。だが、この事件を小説に仕立て、さらに映画化したことによって、今、現実の方が動き始めているという。『トガニ』には、それだけの熱情が込められている。傷ついた人々、勇気を振り絞った人々、事実を知って憤った人々、涙した人々、そして、何とかしなければと決意した人々すべての煮えたぎる思いが、これだけ重たく辛い現実から目をそらさせまいとする強烈な原動力を生んだ。『トガニ』とは「るつぼ」の意味で、原作中ではこの事件そのものを「狂乱のるつぼ」と表現しているが、ある意味では小説取材の時点から映画制作の現場までも、また一つの「るつぼ」となっていたことは間違いないだろう。
 物語は霧津(ムジン)という架空の地方都市を舞台に描かれている。その名の通り濃霧が名物の都市だ。『トガニ』は原作も映画も、その霧を描くことから始まっている。
 霧は、まさしくこの物語の象徴だ。音もなく広がり、湿り気を帯び、そこにあるすべてを呑み込んで、すぐ目の前の人の姿さえ消してしまう。真実を覆い隠し、人々の思いを封じ込め、気力を奪い、声すら上げさせまいとする。主人公のカン・インホは、まずこの霧に戸惑う。行く手に待ち構える不安と、彼自身が背負った過去と憂鬱とが、すべて霧で表現されていると言っていいだろう。
 カン・インホは際立って正義感の強い、人並み優れて善良な人間というわけではない。原作と映画とでは、その人物設定に多少の違いはあるものの、過去に苦い失敗も抱えていればすねに傷の一つや二つくらいあり、叩けば埃だって出てくる、要するに私たちと同じ、ごく普通の人物だ。そんな彼が「他に仕事がない」という理由で、霧津の聾学校へ教師として赴任してくる。家族はソウルに残したままだ。つまり彼は、新しい職場に対して期待に胸を膨らませてきたわけでもなければ、理想に燃えているわけでもない。出来ることなら、ここは無難に切り抜けて、もう少し望ましい環境へのステップにしたいとも思っていた。だが、そんなカン・インホを待ち受けていたのは、おぞましいとしか言いようのない驚愕の真実だった。
 校長や複数の教職員による、長年にわたる自校生徒に対する性的虐待。この、容易には信じる気にもなれない現実を前に、カン・インホはまず、ごく当たり前の反応として傷ついた子どもたちを保護しようとした。大人としての、しごく真っ当な反応だ。たとえ清廉潔白とまでは言えない人間でも、傷ついた子を見れば大抵はそうするに違いない。だが彼は、そこから事件の渦中へと巻き込まれていく。無難に過ごすべきだった腰掛け教員としての日々は、簡単に崩れ去る。
 性的虐待を受けている生徒らは聴覚の障がいと共に、それぞれに家庭の事情を抱えながら生きている、まったくの社会的弱者だ。ことに映像になったとき、子どもらの瞳は、いよいよ強烈に私たちに訴えかけてくる。中でも、自分たちが受けた仕打ちの一部始終を手話で語る場面は、観ているのも辛くなるほどだ。既に十分過ぎるくらいに傷つき、大人に絶望していたはずの彼らが、カン・インホと触れ合うことから再び大人を信じ、真っ直ぐな瞳で大人たちを見つめる。
 これは実際に起きていることなのだという思いが、何度でも頭の中で繰り返される。ただでさえ弱い子らに、なぜこれほどまでにひどいことが出来たのか、どうして教育者などと言えるのか。そんな連中は身柄を拘束され、公の場で裁かれて当然だ。
 ところが物語では、加害者たちがどういう社会構造と利害感情等によって庇護され、再び霧の彼方に逃げ込もうとするかまでが描かれていく。老獪で計算高い連中は、痛くもかゆくもないような顔をして、真実をさらりとかわそうとするのだ。そして、正義を貫き通そうとするカン・インホの方が逆に追い詰められていく。これが大人の世界なのか。やり切れないよな、まったく。クソみたいだ。
 それでもこの小説、この映画が生まれて、結果として世の中は動いたのだ。だから、絶望するにはまだ早い。そう思いたい。

 (のなみ・あさ 作家)

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