書評

2012年6月号掲載

『トガニ』刊行記念特集

不条理と戦う道

――孔枝泳著、蓮池薫訳『トガニ 幼き瞳の告発』

蓮池薫

対象書籍名:『トガニ 幼き瞳の告発』
対象著者:孔枝泳著/蓮池薫訳
対象書籍ISBN:978-4-10-505553-0

 社会を変えるためにではなく、自らが変えられないようにするために戦う――それが小説『トガニ 幼き瞳の告発』で著者の孔枝泳氏が発しているメッセージである。
 孔氏は二〇〇五年に発表した小説『私たちの幸せな時間』で、死刑制度廃止に関しての社会的論議を巻き起こした。今回の作品では社会の最弱者と言える障害者への性犯罪に焦点を当てており、ふたたび韓国社会を強烈に揺り動かした。まさに現在の韓国を代表する社会派作家の真骨頂とも言うべき作品が本書である。
 二〇〇五年六月、「光州事件」で知られる韓国南部の都市・光州市にある聴覚障害者特殊学校で、教職員が長年にわたって障害児たちに性的暴行を加えていたという衝撃的な事実が、内部告発によって明らかになった。しかし、古くからの血縁、学閥などに基づく上級階層の癒着関係のために、警察・司法・行政は全く動こうとせず、事件は一旦、闇の中へ葬り去られかけた。
 その時、多数の市民団体が立ち上がり、テレビ放送を通して事件の真相を広く国民に知らしめたことで、ようやく警察も捜査を始めざるを得なくなる。そして容疑者の逮捕・裁判へと事態は進展し、市民や障害児たちはさらに学校法人の責任と役員の解任などを求めて、すわり込みや登校拒否闘争を行った。世論は当初は彼らに対して好意的であり、マスコミも大々的に報道した。
 しかし事態が長期化して、校長に対する生徒の暴行事件が起きたり、圧力や誘惑に負けた一部の被害者家族が告訴を取り下げたりしたことで、世論は急激に冷えていく。その結果、二〇〇七年に下された校長に対する判決は極めて軽いものにとどまり、執行猶予で出てきた教員が同学校に復職してふたたび教壇に立つという信じがたい結末を迎えてしまう。事件は一時的に社会を騒がせただけで、人々の記憶から消えようとしていた。
 そんな中、この事件の公判に関する新聞記事に触発された孔氏は、関係者への取材を重ねて、『トガニ』を書き上げる。そして、そこから事態は急展開して行く。小説を読んで強い衝撃を受けた人気俳優、コン・ユ氏の強い要望によって映画もつくられ、四百六十七万人という記録的な観客を動員した。
 加害者の教職員のみならず警察や司法、行政への国民の憤りと非難が再燃し、二〇一一年十月『性暴力の処罰などに関する特例法』の改正案が反対0、棄権1という圧倒的賛成で可決される。『トガニ法』と呼ばれたこの法は、障害者の女性や十三歳未満の児童に対する性的犯罪に対し最高で無期懲役までの刑罰を科すことを認めるとともに、性犯罪の時効をなくし、障害者施設従業者には罪を加重するなどの内容が盛り込まれた。さらに、世論に押される形で警察も再捜査に乗り出し、問題の学校は廃校処分となったのである。
『トガニ』が社会派小説としてすぐれているのは、単に障害者への性犯罪を描いただけでなく、韓国社会の深層にあるものにも目を向けている点にある。八〇年代後半の国民的な闘争以来、韓国は民主社会へと大きく変わったように見えた。しかし、その底辺には相変わらず不条理、不正義、不平等がはびこり、社会的弱者を苦しめている。民主化運動のメッカと言われた都市でおぞましい性犯罪が起きて、それを権力者たちが隠蔽しようとした事件は、その一つのあらわれである。
 命がけで軍事独裁政権を打倒し、民主化を勝ち取った世代の孔枝泳氏に対して、現実は何のための民主化運動だったのかという疑問と虚無感をつきつける。相手が軍事独裁ならば目標も明確だが、民主主義・自由競争の名の下に、金権癒着体質や貧富の差という温床で育つ現代の悪とは、戦う術すら容易には見当たらないのだ。
 だが、もちろん現状を嘆いて終わる孔氏ではない。冒頭のメッセージは、現実に流されて変化してしまいがちな人々の心に向けて彼女が発した警鐘である。「変わりたくない」「良心を守り続けたい」というごく当たり前の思いを持ち続けること。それが社会の不条理に対抗する唯一の道であるという孔氏の声は、今の日本人にはどのように響くのだろうか。

 (はすいけ・かおる 翻訳家)

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