書評

2012年7月号掲載

怖ろしいほど嘘がない

――辻原登『父、断章』

円城塔

対象書籍名:『父、断章』
対象著者:辻原登
対象書籍ISBN:978-4-10-456305-0

 本書を読み終えてから、ふとした折りに夜の川を泳ぐ人魚の姿を思い浮かべるようになった。どこで読んだ話だったか、それともどこかで見た光景だったか。思い出そうと頭をひねるが駄目である。勿論この光景は本書に登場するものなのだが、それ以前にどこかで目にした記憶だけが確かにある。
 短篇七つを収録するから、短篇集ということになる。しかしこうして思い返して、相互の区分がはっきりしない。和歌山を舞台としたお話と、中国を舞台とする話さえもがどうも頭の中で混ざってしまった。似たような話だと言いたいわけではなく、どうもそれぞれの短篇が地続きであるせいらしい。頭の中の地図が奇妙に歪んだ感覚がある。現実の地図の上に空想の地図が重なるのだが、その端がくるりと回って両者が一枚に繋がっている。実例を上げた方が良いかも知れない。
「チパシリ」で脱獄を繰り返す椿早苗の行動は、明らかに昭和の脱獄王、白鳥由栄をなぞったものだ、とそこまでは良い。さてしかし白鳥由栄を有名にしたのは吉村昭の『破獄』であって、その他この題材を採った創作は多い。さてこの脱獄は事実と創作、どちらを元にしているだろうか。
「夏の帽子」は、谷崎賞を受賞した芦田誠一郎という作家の講演にはじまり、谷崎潤一郎と佐藤春夫の関係がバーを一つの軸に展開することになる。芦田は、「一九八〇年代半ば、私は三十代のかかりで、商社に勤務しながら作家になる野心を抱いていた」ということだから、作家辻原登にそのままかぶる。かぶりはするが、年齢はどうもずれている。
「天気」の立花は和歌山県のG市へ講演に行く。新幹線の時間を間違えた立花は、新横浜から名古屋へ移動し、近鉄で松阪へ移動、車に拾ってもらって伊勢自動車道、紀勢自動車道を乗り継ぎ、三重・和歌山県境の川を渡ってG市に至る。細部の際立つ描写を追えば、立花がどこへ行ったのかは明らかだ。しかしまたこの移動は、野口冨士男の「なぎの葉考」とかぶるものだと立花自身が気がついている。
 さてこんな御時世だから、ちょっと探しものをしてみると、二〇〇七年と二〇〇九年に、作家辻原登が新宮市で佐藤春夫にまつわる講演をしていることはすぐわかるのだ。ここで注意が必要なのは、作家辻原登の講演があったという事実もまた、文章で伝わるものだという点である。
「午後四時までのアンナ」と「天気」に登場する新宮城の石垣の残る丘にはトンネルがあり、上の世界と下の世界が同時に存在し響き合う配置をとるが、現実の地理である以上、ここに出て来る地上と地下は当然、地続きである。
 本書を可能としているのは、現実に嘘を混ぜるといった小手先の技ではない。小説がこの世に存在する以上、それは現実の存在である。他方、どう事実を記そうとも、それが文章である以上、現実そのものではありえない。虚実は皮膜に隔てられるとも言われるが、ここに膜の姿は見えない。分かれ道を右か左に選ぶだけでも、実は虚に、虚は実に濃淡を伴い変化していく。
 辻原登の小説には、怖ろしいほど嘘がないのだ。何故なら現実そのものでは、虚実さえまだ未分化だからだ。だから、作家の体験をそのまま描くようにも見える「父、断章」、「母、断章」もまた、虚構であり現実であることからは逃れられない。それがどれほど切実な現実だろうと。
 必然的に、作家は自分の来歴を含め虚構と現実両方を同時に作り出していくことになる。まだそれが分かれていないのならば、自分でつくる以外にないからだ。自分の未だ知らない現実へ辿りつこうと試みる。確かに知っているのに思い出せない、何か現実と呼ばれるものへ。
 読み出されるもの、今目の前にあるものの、気が遠くなるほどの積み重ね。希代の書き手の筆は虚実を掻き分け、織物の敷かれた地面を束の間現し、全てはまた溶けあっていく。

 (えんじょう・とう 作家)

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