書評・エッセイ

2012年7月号掲載

歴史を与えて、そのかわりに噛み付く

――柴崎友香『わたしがいなかった街で』

岡田利規

対象書籍名:『わたしがいなかった街で』
対象著者:柴崎友香
対象書籍ISBN:978-4-10-301832-2

 終わり間際。瀬戸内国際芸術祭を見に行った帰りのバスの窓から夕陽の中の棚田の風景を眺める主要人物のひとり、葛井夏は、その風景の中にたたずむ老夫婦の様子から美しい、そして絶望的な認識を得る。表題作「わたしがいなかった街で」はまずなにより、ここがとてもいい。

 全部ではないけど、柴崎友香の小説の大半は読んできてる。彼女の小説を読んでると、自分がふだん生活を送っていてときおり、写真を撮りたくなることってあるけれど、そのときの状態を追体験してるような気分に、しばしばなる。本書に収められてる短篇のほう『ここで、ここで』に、主人公が写真を撮るくだりがあったりもするせいで、今回もそれは改めて思った。自分の人生をそれ自身の写真を撮るような感じで生きること、その気分が形になってる小説。
 さて、この新刊に収められた二篇のうちの表題作のほうが僕にもたらした印象は、しかしこれまでの作品たちから受けていたそれとは少し変わった。そういう生き方に対する、どことなく突き放すような感じが混ぜられていた。
 現実、というやつが小説の中の登場人物たちに、なんだか噛み付きはじめてもいた。たとえば主人公の「わたし」は、職場の中での契約社員という立場であるとか、三十代後半という年齢の女性であることだとか、そういった、この社会に支配的な、フツーの価値観に噛み付かれている。ロンドンで気ままに過ごしたり、沖縄などリゾート地のアルバイトに出向いてはすぐ辞めて帰ってきたり、というキャラの中井という男もそう。彼はこんなことを言う。「なんか自由な生き方みたいにおもしろがる人おるけど、そういう人はたいがい自分は生活安定してるからな。インテリのジャーナリストみたいなやつでギャルとかホームレスとかに勝手にファンタジー見いだす人っておるやん。現代社会の歪みの中のナントカって。まあ、珍獣見て癒やされる的な感じちゃうの」
 これまでの柴崎友香の小説の登場人物たちは、フツーの価値観にこんなにはっきりと噛み付かれたりしてなかったんじゃないか? 噛み付かれてると認めたり、ましてやそう言葉にしたりなんて、彼らはしなかったんじゃないか? 歯牙にも掛けないでいたんじゃないか? 自分の足場から可能な、ほんのちょっとばかしオルタナティブ、という仕方で生を実践してみせてたんじゃないか? そういった流儀が、『わたしがいなかった街で』では、なんだかずいぶんと脆いものとされてる気がする。小説家自らが率先して、その脆さを露わにしようとしてる気がした。

 それから、本作の中で柴崎友香は、小説の中に歴史――つまり、今ここ、という目に見えるものの背後に存在するもののことだ――を取り込み始めてる。具体的には、戦争、という材料をはっきりと用いることによって。「わたし」が自宅で戦場ドキュメンタリー番組ばかり見て過ごす、というのもそうだし、東京や大阪や広島という小説の舞台になる土地の空襲、爆撃の記憶が小説の中で綴られていくのもそう。
 これら「戦争」をめぐる部分は必ずしも、登場人物たちの日常の描写とスムーズなつながりを持ってるわけではなかったりするのだが、強引な手口を使ってでも歴史を取り込みにいって、それを日常ととにかく接合させようとしていることに、僕は共感したし、もっと言えば励まされた。そうしたことを無理にでもやってみる必要を僕としても感じてる昨今なものだから。作中人物が戦争それ自体を経験してるわけではなく、現在の都市に焼け野原がそれと分かる形で残っているわけでもなく、それでも現在と過去が連関を持ってるという認識が込みになってる小説をどうしても立ち上げたいと思ったなら、もう、強引な手口でいく、というので構わないんじゃないか。

 最後に。本作が、歴史を取り込むことと、現実が作中人物たちに噛み付くことの二つを同時にしているのは――分析はできないのだが――必然的なことなのだという気がする。どちらもが対になってはじめて行われ得たことではないか?

 (おかだ・としき 演劇作家、小説家)

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