書評

2012年7月号掲載

「普通の呪縛」を解き放つ三姉妹物語

――橋本紡『ハチミツ』

藤田香織

対象書籍名:『ハチミツ』
対象著者:橋本紡
対象書籍ISBN:978-4-10-300754-8

 ときどき「普通」ってなんだろう、と考える。一億総中流と呼ばれた時代は過ぎ去り、「大学を出たら就職して、なんどか恋愛して、そのうち結婚して、子供が出来たら家を買う」といった「普通の人生設計」は、もはや普通とは言えなくなった観がある。世の中に「普通の会社員」や「普通の主婦」などどこにもいない気がするし、「普通に考えて」などと言われても、なんだか曖昧だなぁと感じてしまう。
 にもかかわらず、その漠然とした「普通」から、こぼれ落ちたくないと心のどこかで思ってもいるのだ。「自分は自分」だと頭では分かっていながらも、他者と幸福の量を比較せずにはいられない。常識がないとは思われたくないし、特別ではなくても、せめて人並に暮らしたいと願ってしまう。そんな「普通の呪縛」にとらわれて、動き出せなくなっている人は、実は今、とても多いのではないだろうか。
 本書の主人公となる吉野家の三姉妹の父・慧(さとし)は、自らを〈普通じゃなかった〉と語る。現在総研会社に勤めている慧は、著作もありテレビのニュース番組でコメンテーターとして世界金融の動向も説く、世間的に見れば立派な「知識人」だ。しかし、私的には女性関係にだらしなく、ちょうど十歳ずつ年の離れた三姉妹の母親はそれぞれ異なり、これまでには彼女たちの母親以外の女性も幾度となく吉野家に出入りしてきたという過去があった。
 物語はそんなある日、慧が書き置きを残して家出した朝の場面から幕を開ける。〈お父さんが家出した〉。三女の杏(あん)の視点から始まる第一章は、二女の環(たまき)、長女の澪(みお)の視点へと移っていくのだが、ここで早くも実に興味深い試みがなされている。語り手が変わると同時にストーリーを先へ進めるのではなく、同じ書き出し、同じ会話を繰り返しながら、三人三様の心情を描いていくのだ。そこから三姉妹の学校や職場での日常へと続くのだが、その書き出しも〈「おい、吉野」〉と、彼女たちが他者から同じ言葉で呼びかけられる場面から始まる。同じ場面、同じ言葉、同じ父親を持つ姉妹。けれど、そこから彼女たちの「個」が、浮き上がってくる。
 高校生の杏は、料理上手なしっかり者。いちばん年下ではあるものの、父親やふたりの姉をどこか客観的に見ている。二十七歳の環は生真面目で、不器用な性格。美人でスタイルも良く男受けは抜群だが、同性には嫌われがちだ。三十七歳の澪は、大手通信会社の総合職として仕事に邁進している。それぞれの母親の記憶があるのは澪だけ。幼い頃から彼女にとって世界は戦場で、泣くことも許されず強く生きてきた。
「普通じゃない」父親から生まれ、とても普通とは言い難い環境で育った杏、環、澪は、にもかかわらず、いや、だからこそ、それぞれの日常を懸命に生きている。が、やがて同級生からの告白や、環の妊娠、澪の左遷などをきっかけに、必死でかぶり続けてきた普通の仮面から、彼女たちの「壊れた部分」が露わになっていく。それぞれの鬱屈、それぞれの苦悩、それぞれの葛藤。三姉妹が直面する事態は深刻だ。
 でもだけど。そこで心を閉ざすのではなく、胸を開き、手を伸ばし、人と繋がる歓びを作者は丁寧に描いていく。
 橋本作品ではもうすっかりお馴染みとなった料理描写は本書でも健在で、その極上のスパイスが物語にもたっぷり効いている。
 先に挙げたような意欲的な試みと、安心安定の変わらぬ味。今年は『イルミネーション・キス』、『今日のごちそう』、そして本書と続々と新刊が発売されているが、いつもこの作者の物語には、今日から明日へと続く道が記されている。
 畏れず、怯まず「自分の幸せ」を見つけることを諦めない。しなやかでしたたかに生きるヒントがここにある。

 (ふじた・かをり 書評家)

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