書評・エッセイ

2012年7月号掲載

「月面の第一歩」という勝負の本質

――松田丈志・久世由美子『自分超え 弱さを強さに変える』

忠鉢信一

対象書籍名:『自分超え 弱さを強さに変える』
対象著者:松田丈志・久世由美子
対象書籍ISBN:978-4-10-332421-8

 二十年も前のことだが話し方まで思い出せる。大学の体育の授業で走り幅跳びに取り組んだときのことだ。元オリンピック選手の先生がこんな話をしてくれた。

 四メートルしか跳べなかった君が、四メートル一センチ跳べたとする。
 その一センチは君にとって、人類が月に印した第一歩と同じぐらいの価値がある。

 あらゆるスポーツに取り組む、あらゆるレベルの人たちが、共感できる言葉だと思う。初めてマラソンを走りきったとき、フットサルで初めて得点したとき、ダンスで新しいステップができたとき、人は未知の世界に足を踏み入れる。未知の世界を体感することの意味、そして感動は、先生の言葉が言い尽くしていると思う。
 松田丈志選手と久世由美子コーチのコンビは、ロンドンオリンピックの二〇〇メートルバタフライで金メダルを目指す。四年前の北京オリンピックで銅メダルを取って以来、世界選手権などの国際大会でメダルを逃したことはないから、銅メダル以上は確実と思っていいだろう。彼らの挑戦は「金メダル」にある。
 この種目には、オリンピックの金メダルをすでに十四個獲得していて、しかもこの種目をもっとも得意としているマイケル・フェルプス選手というライバルがいる。松田選手はまだ世界の頂点に立った経験がない。フェルプス選手に勝ったこともまだない。
 彼らにとっての「月面の第一歩」をどうやって現実のものとするのか。
 二人の熟考の道筋がこの一冊に書かれている。
 ロンドンオリンピックの報道を通じて多くの人が、様々な競技のトップアスリートとそのコーチの人となりを知るだろう。
 メダリストの人柄を描き出す映像。勝因を分析する記事。思いの丈が込められたコメント。それらがこの夏、大量に生産され、消費される。
 しかしその多くは、メダリストになったという事実と、彼らのプロフィールやエピソードを結びつけたにすぎない。腕の立つ記者であれば、独自の情報や、感情を揺さぶるレトリックを盛り込み、読者や視聴者を納得させるかもしれないが、それでもなお、成功の本質を言い当てることはまれだ。それはほぼ不可能。あまりにも複雑すぎる。
 裏を返せばトップアスリートやトップコーチは、その複雑な勝利の方程式を求めて日々、努力しているということになる。
 これだけ情報が溢れている時代だが、唯一無二の身体、時間、環境を生きているアスリートが勝つための正解は、だれかに教えてもらえるものではない。他のだれかが成功した方法でも、その選手にとって良い方法とはいえないことがある。以前はうまくいった方法でも、今は違うかもしれない。
 勝負に正解はない。あるのは結果だけだ。しかし正解を求めなければ勝利を得ることはない。そのジレンマに松田選手と久世コーチは正面から取り組んできた。勝敗の結果にエピソードをまぶした「レース後の記事」には書き得ない勝負の本質に、二人はこの本で迫ろうとしている。勝負を「人生」に置き換えることも十分に可能だ。
 二十年以上に及ぶコンビがたどってきたこの物語に、金メダル獲得というハッピーエンドのエピローグが追加されることを私は祈りたい。
 だが、仮にそうでなくても、この本からなにかが欠けることはないはずだ。

 (ちゅうばち・しんいち 朝日新聞編集委員)

最新の書評・エッセイ

ページの先頭へ