書評
2012年7月号掲載
新しくて普遍的な
――赤木明登『名前のない道』
対象書籍名:『名前のない道』
対象著者:赤木明登
対象書籍ISBN:978-4-10-302573-3
数年前、雑誌の取材ではじめて赤木明登さんにお会いしたとき、彼は自身の作り出す漆器についてこんなふうに語ったのだ。
「僕の器は昔からあるものの写しなんですよ」
とてもさらりと、なんの気負いもなく。穏やかに微笑む赤木さんを前にして、けれど私は少し戸惑っていた。もの作りに携わる人は誰しも、何よりもまず自分の個性を打ち出すことに腐心するものだと思い込んでいたからだ。多くの人々が「赤木明登の器」を求めて個展に足を運んでいる状況と、「写し」と言い切る赤木さんのスタンスとが噛み合わない気もして、不思議な印象を抱いたのである。
この取材から確か一年ほど経って、私は本格的に小説を書くようになった。最近になってようやく、このときの赤木さんの言葉を理解できたような気がする。
「僕の手の内にあった椀は、確かに僕の作ったものだけれど、それは僕の作ったものでなくてもいい。時間を過去に遡ることによって、僕は僕を消していくことができる。僕個人を消し去ることによって、うつわは大きく深いものになる。」
大変おこがましいけれど、私の小説との向き合い方もこれに近い感覚がある。文章からチラとでも作者の顔が覗けば、小説世界は一遍に色褪せてしまう。だから書く段、懸命に自分をなくしていくのだが、その過程のいかに困難であるかを、私はただいま身につまされている。
『名前のない道』は、赤木明登という塗師(ぬし)の、器作りに向かう姿勢と考察がぎっしり詰まった一書である。時に自らに問いかけ、また折々に漆職人の福田敏雄、武者小路千家の千宗屋、木工の三谷龍二といった人々と語らい、画家の松田正平や師でもある漆職人・角偉三郎など今は亡き人の作品に触れながら、赤木さんは探究を続ける。内に深く掘り下げながらも、外に向かって開いている自在な思索や視線があの器に繋がっていくのか、と得心がいく。とても美しいけれど、床の間に飾って観賞するのをよしとしない器。色や形を眺め、手触りを楽しみ、香りや音を感じて――と、五感に訴えかけるもの。それでいて、「これぞ美だ」と居丈高に押し付けてくることなく、日常を愛おしく豊かにする器。
「器と車は似ている」と赤木さんは言うのだ。「だって、道具としての機能が全く同じではないか」と。確かに器は食べ物を運ぶ。
「さらに、車にとって、器にとって、最も重要なことがある。それらの道具を使う人との一体感だ。」
「器とは、潔く官能的で、かつその存在を消し去る、いや自らの身体と深く交わるものなのだ。果てしない夢になるが、僕もそういう器を作りたいと願う。」
奇抜なもの、斬新なものを作ることは、それだけであればさのみ難しくない。そのものが普遍になり得る力を持ち合わせているかが要(かなめ)なのだ。赤木さんは軽やかに「写し」と言う。だがその実、遥か昔から連綿と続く職人たちの技や心をしかと汲んで、それを一段深くして、自らの手を通してすべてをひとつの器に昇華するような、とてつもないことに挑んでいるのではないか。赤木明登の器が、はじめて手にした瞬間から、まるでずっと以前から身近に存在していたように馴染むのは、それがいつの時代にも通用する普遍性を宿しているからなのだと思う。
赤木さんのしていることは、たぶんとても新しい。だがこの新しさは、単に特異さで目を集めるような一過性のものではない。誠実に本質的な創作を続ける赤木さんの「名前のない道」がどれほど強靱で美しいものであるかは、作り出される器がはっきり証している。未熟な物書きである私は、その様を心底羨んでいる。
(きうち・のぼり 小説家)