書評
2012年8月号掲載
『ひらいて』刊行記念特集
恋愛の幾何学模様に風が吹いて
――綿矢りさ『ひらいて』
対象書籍名:『ひらいて』
対象著者:綿矢りさ
対象書籍ISBN:978-4-10-126651-0
綿矢作品には、風が吹き通る、という印象がある。空間が、すきまが目の前にひらき、ここではない場所から涼風が吹きよせ、前髪や耳をなぶる。ストーリー上で起こっていることとうらはらに、たとえば語り手が呪詛のことばをつぶやいていようが、どうしようもない流れにまきこまれ我をうしなっていようが、その勢いでいっそう吹き巻く風の心地よさに、おもわず息をすいこみ、胸を高鳴らせてしまう、そんなことがしばしばおきる。
主人公は高校三年生の女子。異性にもて、成績も悪くないけれど、他には知られていない、知られたくもないうすぐらい内側を、ひっそりとかくしもっていると、みずから感じている。目がすこぶるよく、考えるより前に動き、一瞬もひとつところにとどまっていない。直線、「直覚」で動く語り手、木村愛。
愛は冒頭から恋におちている。近づいてくるものの気配に、野生動物なみに敏感で無口な同級生、西村たとえ。教室のなかで愛の視線はたえずたとえの手のあたりをさまよう。指をくんだり、頭のうしろにまわされたり、リュックサックの上に置かれたりする彼の手から、愛の目は、手のことばをききとる。そこに距離が、空間があいている。自分勝手に押しつけたり、安易に触れ合いを求めたりせず、ちょうどいい目の距離をはかりながら、愛はたとえの周囲をめぐる。とはいえその距離感をまどわせてしまうのが恋。まっすぐに視線をのばしつつ、愛は学校へしのびこみ、綱渡りのように身を張って、たとえの机から手紙を盗みだす。夜の教室にいるはずが、なんだか明るい、広い場所にいる気配がするのは、教室は学校に、学校はこの町に、町はこの宇宙に広々ととりまかれていて、この小説ではそのことが、小さなシャーペン一本の銀の表面にさえうつりこんでいるからだ。
手紙の文面がひらかれる瞬間、一気にあたらしい空間、クレバスが生じる。そこに真空がうまれるほどの。風というより、頬を切るかまいたち。書いたのは、たとえの恋人、「ほの白い肌が美しい、精巧な人形のような」同級生、美雪。糖尿病で、一日三回ブラウスをまくって、腹にずぶりと注射をうつ。手紙からは、たとえと美雪のおだやかな関係、完璧な空間がありありとたちあがってみえる。愛は呪詛のことばをつぶやきながらまっすぐに、本人としては、わけのわからない衝動をもって美雪に近づき、そして思いもよらない運動のなかへまきこまれていく。
読みながら、ノートに大きく「愛は箱だ」と書きつけていた。それぞれの隅はきっちりと直角で、内側には千代紙が貼られ、聖書のことばが記されてあり、踏まれても容易にはつぶれない、端正な箱。いっぽう美雪は、厚みのない正円である。円は、やってきたものをバウンドさせ、もとのほうへ返す。閉じられてみえるが、じつはまんまるにひらかれ、なによりもいちばん強い図形。愛の箱は、本人の知らない間に、ときおりちらちらと蓋がひらき、母や美雪にはそこから吹きよせる風が匂いでとどく(たとえの前ではきっちり四角四面に閉じてしまう)。美雪の円も、するりと愛の箱にはいりこみ、じょじょに厚みをもって、湿りけをおびた球となって跳ねる。ここにあるのは、だから、いわゆる三角関係でなく、丸と四角の、入れ子の関係だ。
愛の箱がからっぽになって、どんなものも容れないように蓋がとじてしまう。そんなとき箱の底で、もう残っていないとおもっていた美雪のかけらがきらめき、まるまるとふくらみだして、内側から、箱の蓋をひらく。と同時に、それまでつぼみだったさまざまな関係が、春の光をうけたかのようにつぎつぎとひらき、わたしたち読者の胸も、窓をあけはなち、外へとびだしたかのようにひらいていく。蓋がひらいているのに、いや、ひらいているからこそ、どんなものにも満たされる。恋愛の幾何学模様に風がふいて、まあたらしく、うつくしい図形がそこにうまれる。
(いしい・しんじ 作家)