書評
2012年8月号掲載
義太夫節が体に入ってしまったので
――橋本治『浄瑠璃を読もう』
対象書籍名:『浄瑠璃を読もう』
対象著者:橋本治
対象書籍ISBN:978-4-10-406113-6
「考える人」誌上で『浄瑠璃を読もう』の連載を始めたのは二〇〇四年のことですが、実はその前からイラストレイターの岡田嘉夫さんと組んで、歌舞伎の演目を絵本にするという仕事を始めていました。『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』から始まって『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の五作で、先々月にようやく完結しました(ポプラ社刊)。
近世人のややこしいドラマを子供に分かるように書くというのは、すごくむずかしいようで、実はそうでもありません。「なんということでしょう」とか「大変です」というような言葉を接続詞的に使って文章作者が身を乗り出してしまうと、なんとなく話の説明が出来てしまうのです。私が絵本にした五作品は、すべて『浄瑠璃を読もう』にも収録されていて、ベースは義太夫節の浄瑠璃です。人形浄瑠璃は太夫が全篇を語ってしまうものであることを考えれば、作者が登場人物の立場に立って読者を先導してしまうなんてことはなんの不思議もありません。子供向きの絵本だからこそ「こういうお話なんですよ」ですんでしまいますが、ふっと思うと、「じゃなんでこうなるの?」という障害あるいは疑問だらけです。近代論理の大人なら「なぜ?」ということだらけだなと思って、私は『浄瑠璃を読もう』の連載をやらしてほしいと言い出しました。もう、体がムズムズして止まらなかったのです。
私の体の中には義太夫節が根を下ろしてしまっています(ついでながら『浄瑠璃を読もう』の浄瑠璃は義太夫節のことです)。もしかしたら、小説を書く私の小説に一番の影響を与えたのは、義太夫節かもしれません。しかもそれは、近世の論理ではなくて、音です。
私は、ストレートの直叙体の文章が退屈で苦手です。だから平気で文章に捻りを加えてしまいます。他の人と比べてテニヲハの使い方がおかしいので、よく校正者に疑問を入れられます。「この助詞はもしかしたら間違いですか?」というように。私は音の体感でやっているだけなので、そのたんびに「俺は現代人じゃないんだな」とは思います。
私の捻りは三味線の節付けみたいなもので、「このまま進行すると単調になるから、ここで一つ三の糸をすくい上げるか」というような感じです。理屈でやっているわけではなくて体感でやっているから、そういう体質を押しつぶしているととてもつらくなります。私にとって文章というのは「音」なので、「あ、音になって流れている」と感じられれば、それでOKです。理屈もへったくれもなくて、「そうならなければだめ、そうなってれば別に問題はなし」です。文章を書いているだけなのに、私の中では勝手に義太夫語りの太夫と三味線の「間」が作動しています。
なんでそんなことになったのかというと、二十代の初めの頃に義太夫節のレコードばっかり聴いていて、「大曲」と言われる『仮名手本忠臣蔵』の九段目とか『妹背山婦女庭訓』の山の段を、勝手に諳んじてしまったからです。十代の頃にはブロードウェイミュージカルのレコードを買って、曲を覚えて勝手に歌っていたのが、義太夫に移行しただけです。
私は、歌舞伎というものを「バカバカしいから好き」と思っていたのですが、同じ歌舞伎でも義太夫狂言はそうじゃない。見ていて眠っちゃう。これじゃだめだと文楽の公演を見に行って、それでも眠っちゃうので、「そこに没入して体を馴染ませる」という方法論を取っただけです。
だから、一時間半ほどの長さのものが、意味を抜きにして「音」で体の中に入っている。その音が甦るたびに「ああ、こういう意味か」という再生が起こり、「なんでそうなるの?」という疑問も生まれる。二十代の頃に「封建論理」でもあるようなものを体に入れて、「なぜ?」という自問自答を繰り返していたので、その結果分かった「美しい論理」を述べさせてほしいと思っただけです。
(はしもと・おさむ 作家)