書評・エッセイ

2012年9月号掲載

デパートという故郷

――長野まゆみ『あのころのデパート』

酒井順子

対象書籍名:『あのころのデパート』
対象著者:長野まゆみ
対象書籍ISBN:978-4-10-113954-8

 最寄りの駅で電車を降りた時、一緒に降りた女性の顔にどこか、見覚えがありました。知り合いではない、けれど知っているこの人は誰なのだ……としばし考えた末、わかったのは「伊勢丹の靴売り場の人だ!」ということ。この人から靴を買ったことはないけれど、颯爽と売り場に立つ姿を、記憶していたのです。
 その時から、私は彼女を「伊勢丹さん」と心の中で呼ぶようになったのですが、駅で見る伊勢丹さんは、いつも疲れていました。日々の立ち仕事は、さぞ大変なのでしょう。
 伊勢丹さんの姿を見て思ったのは、「客はデパートを、裏から見てはいけない」ということでした。デパートとは、華やかな舞台のようなもの。劇場にやってきた観客が舞台裏を見たら夢から醒めてしまうように、デパートの買い物客も、その裏側を見るべきではないのだと、背筋を丸めて改札を出る伊勢丹さんの姿は教えてくれた。
 かつて長野まゆみさんがデパートに勤務しておられたことを、私は知りませんでした。やがて作家となる人の目に、デパートはどう映ったのかがわかるのが、『あのころのデパート』。デパート独特の礼儀や符丁、バックヤードでの忙しさや商品の包装の仕方あれこれといった、デパートの内側にいた人しか知り得ない事実の数々は、「本当は裏側から見てはいけないものをこっそり見てしまう喜び」を、もたらしてくれます。そう、舞台が華やかであればあるほど、その裏側はアメイジングであり、「デパ地下戦争最前線!」みたいな夕方のニュース番組内の特集が、実は私は大好き。
 私もそうですが、長野さんもまた、デパートという業態が華やかだった昭和の時代に生れ育ったかたです。あの頃のデパートには、「デパートに行けば、どうにかなる」という信頼感がありました。今のように、「デパートにあるのは、そこそこのもの」という意識は無かったし、大人も子供もデパートに行けば一日、楽しむことができた。あの頃には「おでかけ」と「よそゆき」という概念があったことを、この本は久しぶりに思い出させてくれました。
 長野さんは、デパートに対する夢をたっぷり抱きながら成長し、いざ就職となって、その夢の裏側にいきなり回り込んだのです。そこには大きなギャップがあったであろうことは、想像に難くない。
 しかし裏側から見る経験を積んだからこそ、デパートに対する思いは強まったのだと思います。今、デパートは昭和時代のような華やかさを持っていませんが、「あのころにはもどれない」としながらも、長野さんはどこかで、デパートがかつての輝きを取り戻す道を探っているようにも見える。
 私もまた、その思いを共有する者です。デパートに入る時の、あのわくわくする気持ちは、既に遊園地にときめかなくなった大人にとって、どれほど貴重なものか。大人になって頼るべきものがなくなった今、せめて買い物の時くらい、デパートという大きな存在に頼りたいのかもしれません。
 客にとっては夢の舞台であるデパートは、しかし従業員さんにとっては厳しい現実の場です。変な客もいれば、嫌な上司もいる。そんなデパートを長野さんは、夢の側からも現実の側からも、そして過去からも現在からも、見つめます。デパートの限界を見つつもその可能性を探る視線は、かつての従業員であり、顧客であり、そして作家である人ならでは。
 その昔、よそゆきで出かけたデパートには今、短パンやジャージ姿の若者や外国人客が溢れます。あらゆる場面で表と裏の区別がつきづらくなった今ですが、せめてデパートくらいは、あの華やかな劇場性を持っていてほしいと願うのは、単なるノスタルジーなのか。「あのころにはもどれない」デパートは、かつてデパートを楽しんだ子供にとって、故郷のようなものなのかもしれないとも、気づくのでした。

 (さかい・じゅんこ エッセイスト)

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