書評

2012年9月号掲載

今こそ、母の声を届けたい

――横田早紀江『めぐみと私の35年』

歌代幸子

対象書籍名:『めぐみと私の35年』
対象著者:横田早紀江
対象書籍ISBN:978-4-10-332761-5

 初めて横田夫妻にお会いしたのは、昨年四月のことだった。『新潮45』から早紀江さんの手記をまとめる依頼を受け、夫妻が住む川崎のマンションを訪れた私は、かつてないほど緊張していた。初対面というだけでなく、横田めぐみさんには、特別な思いがあったからだ。
 夫妻の長女、めぐみさんが突然に姿を消したのは、一九七七年十一月十五日のこと。中学一年生のめぐみさんは、夕方、クラブ活動を終えて帰宅する途中、自宅近くの十字路で友だちと別れたまま、消息を絶った。
 めぐみさんと同年生まれの私もまた、当時、新潟市内の近隣中学へ通う生徒だった。めぐみさんの一家が暮らす水道町界隈は馴染みがあり、周辺の海岸や松林は慣れ親しんだ遊び場でもあった。めぐみさんの行方不明を伝える『新潟日報』の記事は、私たちを震撼させた。あの事件を機に、誘拐を案じる親からは一人で海岸付近へ行くことを禁じられ、子どもたちも怖れて足が遠のいた。
 めぐみさんの消息は分からないまま、時おり、「外国で暮らしているらしい」などと噂が流れた。テレビのワイドショー番組で涙ながらに娘の情報を求めるご両親を見るたび、痛ましくてならなかった。街角には公開捜索のポスターがたくさん貼られていたが、それもだんだん色褪せていった。
 あれから二十年後。めぐみさんが北朝鮮に拉致されたという報道があり、大きな衝撃を受けた。私は娘をもつ母親となっており、なおのこと他人事とは思えなかった。被害者を救出するための署名活動が始まると、家族全員で名前を記した。
 さらに五年を経た二〇〇二年、小泉首相の訪朝が実現し、ようやく事態が進展した。だが、そこで伝えられたのは「五人生存、八人死亡」のニュース、そして、めぐみさんの「死亡」情報だった。
 その後、北朝鮮から「めぐみさんの遺骨」が届けられたが、それは別人のものだった。なおも翻弄される家族の苦悩はいかなるものだったか。私の心には、中学時代の記憶とともに、拉致問題、殊にめぐみさんの存在が常にあったように思う。
 それでもまさか、自分が早紀江さんの手記をまとめることになろうとは思わなかった。たいへん意義のある仕事だと感じたが、同時に重圧も大きかった。
 インタビューを始めると、報道では知り得なかった家族の軌跡が浮かび上がっていった。明るくお茶目な娘との思い出、双子の弟たちと家族五人で囲んだ食卓……一家の幸せな時間は、めぐみさんの失踪によって無残に断ち切られてしまった。絶望の淵で、懸命に娘を探しまわる日々。拉致されたことが分かってからは、救出を求める壮絶な闘いが始まった。
 そして現在、日朝間の交渉は止まってしまい、解決にむけての動きは見られない。その真実を伝えたいと、早紀江さんは辛い心情を語り続けてくれた。
 そうした思いを、私はどこまで伝えられるのか。書き進めるほど無力感に苛まれ、めぐみさんが行方不明になった新潟の現場へ行ってみた。同じ十一月の夕刻、早紀江さんが息子たちを連れて探しまわった場所をたどった。夜には人通りも途絶える住宅街、中学校から護国神社、さらに寄居浜へ向かうと灯りも途絶え、波音を聞いていると漆黒の闇に吸い込まれそうになる。「めぐみちゃーん、めぐみちゃーん!」と叫ぶうち、胸の動悸は高まり、震えがおさまらなかった。“同じ母の立場として、必ずや娘を……”という思いが湧き、その一念で最後まで綴ることが出来た。
 本書では早紀江さんの生い立ちにもふれた。両親から注がれた愛情を同じようにめぐみさんに注いだことがわかる。滋さんと築いた家庭のアルバムには、子どもたちの笑顔があふれている。残された写真を見るたびに、この家族の幸せを奪った拉致問題の非情さを思った。それゆえ、数奇な人生を歩まざるを得なくなった母親の深い悲しみも……。
 訪ねるたびに、早紀江さんはベランダで育てている花の写真を楽しげに見せてくださった。「めぐみもお花が好きだったの」と。娘がいなくなったあの日から三五年。「娘にもう一度会いたい」と願う母の切なる声に、今こそ耳を傾けて欲しい。

 (うたしろ・ゆきこ ノンフィクションライター)

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