書評
2012年9月号掲載
未公開写真の背後にあるもの
――NHKスペシャル取材班/山辺昌彦『東京大空襲 未公開写真は語る』
――NHKスペシャル取材班『ドキュメント東京大空襲 発掘された583枚の未公開写真を追う』
対象書籍名:
『東京大空襲 未公開写真は語る』/『ドキュメント東京大空襲 発掘された583枚の未公開写真を追う』
対象著者:NHKスペシャル取材班・山辺昌彦/NHKスペシャル取材班
対象書籍ISBN:978-4-10-405604-0/978-4-10-405605-7
連日、東京の新名所、東京スカイツリー界隈が観光客でにぎわっている。隅田川にかかる橋のたもとで、若いカップルがスカイツリーをバックに記念写真を撮っている。日本に明るいニュースをもたらしたスカイツリー――かつてこの場所で多くの命が奪われたが、スカイツリーを見上げれば、悲しみや怒りが風化してしまっていることを感じる。しかし、「東京大空襲」を記録した未公開写真をつぶさに見ていくと、遠のいていた「戦争のリアル」を肌感覚で強烈に思い知らされることになった。
「目の前で人が燃えていた。人が焼けるものすごい臭いがしていた」
空襲を逃げのびた証言者たちは皆、当時の記憶に残る光景を「地獄」と言った。
「隅田川には炎から逃れようと橋から飛び込んだ人たちの無数の屍が浮き沈みしていた」
証言者たちの生々しい言葉……空襲を体験した人たちは、長い年月を経た今も、その傷が癒えることはなく、その怒りが解けることもない。皆、一様に戦争を許せないという強い憤りを言葉の端々ににじませた。写真を見ることで、封印してきた悲しみや怒りを爆発させる人もいた。
「大切な家族の命を奪った空襲を許せない。私の戦争は今も終わっていない」
昨年夏、都内にある写真店の押し入れから「空襲」を生々しく切り取った五百八十三枚にものぼる未公開写真が見つかり、東京大空襲・戦災資料センターの山辺昌彦氏ら研究者の手に託され、NHK取材班は、山辺氏と共同で写真の取材にとりかかった。まず、五百八十三枚を一枚ずつ丁寧に見ていくことから始めた。
すると、写真にはこれまで見たことのない「空襲の最中」や「空襲直後」の市民たちの姿が記録されていたことが分かった。次に、写っていた場所を特定する。目印になるビルや建物の形状などから品川、原宿、銀座、杉並などを襲った空襲の様子であることが分かった。
さらに丁寧に見ていくと、焼失した小学校の校舎、病棟が焼け落ちた病院、破壊された寺や駅舎など、市民の暮らしの土台が根こそぎ爆弾で破壊され、焼夷弾で燃やし尽くされた様子が克明に写し出されている。写真は戦後六十七年間、封印されてきた「空襲の真実」を物語っていた。まさに歴史が埋もれてきたのだ。
東京大空襲を記録した映像資料は、石川光陽氏が撮影した三十三枚の写真を除いてほとんどないため、甚大な被害の全貌は、これまでほとんど知られてこなかった。しかし、今回発見された写真によって東京への空襲被害の“手触り”が具体的に明らかにされることとなった。
そればかりではない。
昭和二十年三月十日――一晩で十万人の命が失われた東京大空襲。東京への空襲というと、この空襲が広く知られている。しかし、被害はこの日限りではない。昭和十九年秋から二十年の終戦間際にかけて、のべ百回以上、半年余りにわたって続いていたのだ。しかも、三月十日以前は「軍事施設しか攻撃していない」と我々は思い込まされてきたが、実際には、空襲の初日から、米軍は市民を標的にした無差別攻撃を行っていたことが改めて実証されたのである。
空襲直後、銀座4丁目付近の消火活動。昭和20年1月27日、撮影・関口満紀
今回発見された写真は、軍の特別許可を受けたカメラマン達が撮影したもので、彼らは「東方社」という陸軍傘下にあった軍関連の会社に属していた。カメラマンを率いていたのが、昭和を代表する写真家・木村伊兵衛氏だった。木村氏らは、報道カメラマンとして歴史を伝え残したいという一念で、シャッターを押し続けたという。五百八十三枚の写真に写し出された戦争は、これまでに見たことのない記録の山だった。空襲直後、煙に包まれる住宅街を逃げ惑う市民たちの姿――炎に向かうように撮影したカメラマンのことを思うと、撮影は命がけだったに違いない。
実際、焼夷弾が降り注ぐ中で撮影は始まっていた。撮影順に並べられたネガを見ていくと、炎と煙が街を飲み込み、市民たちが必死で避難する中で、懸命に消火にあたる人々の様子が記録されている。思わず目を奪われ、写真に見入った。
カメラマンたちの強い信念を感じる写真は、燃えさかる火の中で撮影されたものばかりではない。焼け野原の中で、復興へと立ち上がろうとする市民たちを記録した写真は“愛情”にあふれていた。何もかもが失われた大地を鍬一本で耕す子どもたちの笑顔――。そうした写真を見ていると、ふと、東日本大震災の被災地を記録した写真とダブって見える瞬間があった。まさに「裸一貫、何もかも失って頑張るしかない」という人たちの姿だった。
当時は戦意高揚が優先されており、こうした写真を記録することが難しく、戦後も処分が相次いだことを思えば、今回発見された写真が残っていたことは、奇跡だったといえるだろう。彼らは常に心に念じていたという。
「今は評価されなくても、五十年後、百年後に役に立つ写真を撮ろう」
記憶に残る一枚――。
B29に焼夷弾を投下された銀座で、ビル火災を消し止めようと奔走する消防の人たち。
一面の焼け野原に棺を置いて、足踏みミシンを祭壇にしつらえて葬儀を営む家族の姿。
真っ黒焦げの柱しか残っていない校舎の跡地で、後片付けをする子どもたち。
空襲が、静かに暮らしてきた市民の生活を一瞬にして奪っていた。この空襲が始まる前、戦争は「軍」対「軍」の闘いだった。兵士以外の一般市民が攻撃の標的とされることは、国際法上も認められていなかったためだ。しかし、終戦を急ぐアメリカは市街地攻撃に踏み切った。「軍服を縫製する町工場」も「兵隊に食糧を届ける店」も全てが“軍事施設”だという理論の“すり替え”で市街地=軍事関連施設とされ、市民がターゲットとされたのだった。
原宿駅付近の被災現場で、消火に当たる人々。昭和19年11月27日、撮影・小山進吾 写真=撮影 東方社
写真提供 NHK/NHKエンタープライズ 東京大空襲・被災資料センター(2点とも)
今回、私たち取材班は、写真だけを手がかりに、そこに写っている人たちの消息をたどっていった。写っている人が見つかると、そこで得られた貴重な証言を裏付けるために、米軍側の資料を探し、何時、どのような作戦に基づき攻撃された空襲なのか、詳しく検証していった。五百八十三枚の写真を紐解いていくことで「東京大空襲」の埋もれた歴史に迫っていったのである。半年余りの取材で明らかになったのは、米軍は緻密な計画を積み上げた末、用意周到に東京の街を焼き尽くしていったという事実だった。
その取材の蓄積は去る三月、NHKスペシャル「東京大空襲 583枚の未公開写真」にまとめられ、放送された。しかし、一時間弱の限られた時間では取材班の思いの全てを伝えるのは難しい。そこで今回、紹介しきれなかった写真や証言の数々を、写真集と書籍という形で、同時刊行する機会を与えて頂いた。
写真集には、一枚一枚の迫力はもちろん、市民の表情といった空襲の“手触り”が確かにある。その写真を手がかりに取材班がたどった道程を記した書籍には、アメリカ軍関連施設の取材によって新たに入手した、未公開の米軍内部資料や、東京空襲に参加したB29のパイロットへのインタビューなども網羅され、写真の背後にある“アメリカの意図”が透けて見えてくる構成になっている。
さらに「写真の光景を忘れられない」と話す、空襲遺児の方たちなど、体験者の証言もふんだんに盛り込み、一冊の本にまとめた。
私たち取材班が五百八十三枚の写真を手に格闘しながら空襲の全貌へ迫り、番組に込めたメッセージへの道筋を、是非、読者の皆さんにも知って頂きたい。その上で、私たちがたどり着いた普遍的な結論、「戦争は決して繰り返してはならない」という思いを分かち合って頂ければと思う。
二冊をきっかけに、私たち取材班は今、「戦争を語り伝えていく」決意を新たにしている。
二度と悲劇を繰り返さないために――。
(いたがき・よしこ NHKチーフプロデューサー)