書評

2012年9月号掲載

「見えざるもの」とどう関わるか

末木文美士『現代仏教論』

末木文美士

対象書籍名:『現代仏教論』
対象著者:末木文美士
対象書籍ISBN:978-4-10-610482-4

『現代仏教論』の中核の一つは、二〇〇九―一一年「読売新聞」夕刊に連載した「見えざるものへ」というエッセーである。僕たちが日常的に接し、分かっていると思う世界の裏側に、見えもせず、理性で考えても分からないものたちの世界が広がっているのではないか。少し前から他者や死者の問題を考えてきていた僕にとって、「見えざるもの」とは、死者によって代表され、この世界の秩序の中に組み込まれないものたちのことだが、それは共感できる少数の人たちにとって切実であっても、多くの人たちにとっては関心を惹かない話題であった。
 ところが、3・11以後、大きく状況が変わった。震災は多くの死者をうみ、死者との関わりが大きな問題になった。それだけでなく、放射能という「見えざるもの」の恐怖に直面した。平和な農村が、「見えざるもの」の暴力に侵され、人々は追い立てられる。否応なく、「見えざるもの」に目を凝らさざるを得なくなる。よく考えると、僕たちの世界は「見えざるもの」に満たされているのではないか。ヒッグス粒子の発見によって沸いた素粒子の世界もまた、痕跡しか見ることのできない「見えざるもの」の世界だ。それが異世界ではなく、この世界そのものの構造だとすれば、この世界はじつは「見えざるもの」の世界なのではないか。
 原発はさらにまた、別の困難な問題を突きつける。今表立って問題にされているのは、地震や津波という自然災害に原発は安全か、ということだが、問題はそれに止まらない。使用済み燃料等の核廃棄物の処理という難問が突きつけられている。再処理により安全かつ有効に使えるという触れ込みは、実用化できず、頓挫した。直接処理するとすれば、その危険は十万年もの未来にまで及ぶという。その頃には、人類は滅亡してしまっているかもしれない。そんな先まで責任を持たなければいけないのか。一体未来のどこまで責任を持つ必要があるのか。
 僕はこれまで、死者を考えることで、過去の「見えざるもの」との関わりを追究してきた。過去の死者たちは、たとえ無名化しても、確かに過去を生きた人たちであり、他者として生者に迫ってくる。だが、未来の「見えざるもの」たちは、どこまで具体的に僕たちとの関わりの中に入ってくるのだろうか。子や孫の世代ということならば、かなりの具体性をもって分かる。しかし、百年先となると、もう漠然としてくる。そのもっと先を一体どう考えたらよいのか。
 こうした問題が本書で直接論じられているわけではない。本書が仕上がった後、考えている問題だ。しかし、本書で論じられた他者や死者、そして震災などの問題が、議論の基礎となるであろう。『現代仏教論』と言っても、現代仏教の外観をあげつらった論ではない。仏教を原点として、こうした人間の難問を考えていく試行錯誤の出発点である。

(すえき・ふみひこ 仏教学者、国際日本文化研究センター教授)

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