書評
2012年9月号掲載
闘う女、八重
――福本武久『小説・新島八重 会津おんな戦記』
『小説・新島八重 新島襄とその妻』(ともに新潮文庫)
対象書籍名:『小説・新島八重 会津おんな戦記』『小説・新島八重 新島襄とその妻』(ともに新潮文庫)
対象著者:福本武久
対象書籍ISBN:978-4-10-136611-1/978-4-10-136612-8
大きな歴史の流れの中で、女性の存在は埋もれがちである。夫に仕え子を生し、戦争が起これば、銃後を守るのが務めとなる。男たちの陰にかくれ表舞台に出ることはきわめて少ない。新島八重もそういう存在であった。
私が新島八重を最初に知ったのは、日本の悪妻について調べていたときだった。同志社の創設者、新島襄の妻で、キリスト教徒でありながら生徒たちに横暴にふるまい「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性」と言われていた、という記述が目に付いた。
二〇一三年、NHK大河ドラマの主人公が新島八重になったというニュースを見て、あらためて調べてみると、まさに歴史の中に埋もれていた女傑であり、波瀾万丈の生涯を送った奇跡のヒロインではないか。近年まで忘れ去られ、一部の悪口だけが残って「悪妻」という印象のみが独り歩きしていた。
著者の福本武久は「八重」の存在を早くから紹介してきた小説家である。昭和五八年、今回文庫化された『会津おんな戦記』と『新島襄とその妻』が相次いで刊行された。会津にも同志社周辺にも資料は少なく、調査は困難を極めたようだ。しかし資料が少ないことが、小説家にとっては味方になるときがある。明治維新後の歴史は詳しく残っている。八重はそのとき、何をやっていたのか。資料がないなら想像で埋めていけばいい。この二作は作家の想像力がフルに発揮され、物語の中に生き生きとした八重の姿が浮かび上がってきたのだ。
会津藩の砲術指南役、山本権八・さくの娘として生まれた八重は、兄の覚馬より銃の手ほどきを受ける。鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争において、新政府軍である薩長同盟は、京都守護職であった会津藩主、松平容保を朝敵として会津若松に迫ってきた。鶴ヶ城に入城した婦女子の数はおよそ六〇〇人。そこに八重と、母のさく、そして嫂のうらと姪のみねがあった。
当時八重は会津藩校日新館の教授をつとめていた川﨑尚之助と結婚していた。城内で指揮を執る夫とは別に、彼女は断髪し、亡き弟の軍服を着て男にまぎれ、七連発のスペンサー銃やゲーベル銃を手に夜襲のため藩兵とともに城外へ飛び出していった。しかし女を戦いの前線に出すわけにはいかないと、負傷者看護と食糧調達に回される。兵士の数と兵器に勝る新政府軍との戦いは約一か月に及んだが、米沢藩、仙台藩の降伏や白虎隊の自刃などで万策尽き、ついに明治元年九月二二日、降伏開城となる。ここで他藩出身の尚之助とは離婚。近在の村に身を寄せ、その日暮らしとなった。
そこに、鳥羽伏見の戦いで戦死したものと諦めていた兄、覚馬が京都に生存しているとの知らせが入る。会津を離れることを拒む嫂のうらを残し、八重はさくとみねを伴い京都へ赴く。そこには目が不自由になりながら、京都府の重職となった兄が確かにいた。
やがて覚馬の友人である新島襄と知り合う。彼は二二歳の時、函館からアメリカ船で密航し、ボストンに到着する。自然科学を学ぶうちに西洋文明の背後にあるキリスト教の精神に魅かれ、洗礼を受ける。一〇年後、帰国した新島は日本という国にも、アメリカ伝道協会からも縛られないキリスト教主義の学校建設を画策していた。
新島が妻に求めたのは、日本人でありながら、亭主が東を向けといえば、三年でも東を向いているような女性ではなかった。男装をして銃を手に取り闘う女であった八重は、新島の理想の女性であったのだ。そこから夫婦二人三脚で新しい学校の設立を目指す。神社仏閣が多い京都でキリスト教の学校を開く、ということがどれだけ大変であったかは、本書に余すところなく描かれている。八重が悪妻に見えたのは、新島が好んだ「美しい行いをする人」(同志社編『新島襄の手紙』より)であったからだろう。
その無理が新島を蝕む。同志社英学校の土台が固まり展望が開けてきたころ、四八歳で新島はこの世を去る。
小説はここで終わっているが、八重の波瀾万丈な人生は続いていく。日本赤十字の会員となり、日清・日露戦争では篤志看護婦として従軍し、戦後は社会福祉活動に身を投じていく。八重という名前そのままに八八歳まで生ききり、明治初頭から日本の発展を見続けてきた女の一生は、現代の女性が学ぶべき勇気と知恵にあふれている。
(あずま・えりか 書評家)