書評・エッセイ

2012年10月号掲載

『犬とハモニカ』刊行記念特集

小説の窓

――江國香織『犬とハモニカ』

綿矢りさ

対象書籍名:『犬とハモニカ』
対象著者:江國香織
対象書籍ISBN:978-4-10-380809-1

 人にはいろんな生活があることを、小説を読んで思い出すのは、もしかすれば奇妙なことかもしれない。実際に友だちや仕事関係の人と会って、遊んだり食事をしたりしながら交わす会話の節々で、ああこの人は当たり前だけど私と全然違う職業に就いてるんだ、とか、そんなことについて深く考えているんだ、とか、時間をそんな風に使っているんだ、とかを感じる方が、自然かもしれない。でもなぜか、江國さんの短編を読むと、生身の人間と触れ合う以上に、いろんな人々のそれぞれ違っている生活に触れられた、と感じる。まるで夜、マンションの窓にそれぞれ明かりが灯っていて、カーテンが引かれていなくて、中の人々が自分のうちでやっていることが覗けるみたいに、くっきり見える。
 今回の短編集で、私にとって、もっともくっきりとその人なりの生活が見えたのは、「寝室」の文彦だった。長年の恋人、というか不倫の相手の女性にフラれた彼は、茫然として鏡のなかの自分を見つめる。沈んだ顔をしているが、顔の造作はまだまだ悪くない、恋人もしばしば“あなたは美しすぎる”と言っていたじゃないか、なぜ別れようなどと言い出すのか――。自信満々の壮年の男性は確かに魅力的だ、みじめな感じがないのは、とても良いこと。でも本当は生身ばかりが魅力的なのではなく、彼に自分自身をすてきだと思わせてくれる周りの人たちの愛や言葉が滋養になって、彼を輝かせている。それに気づかず鏡を眺めて首をひねる、ずうずうしいけどどこか可愛げで憎めない、妻の眠る深夜の自宅での男性の姿が、双眼鏡で覗いているみたいにまざまざと見える。
「ピクニック」では結婚して五年になる夫婦が、年に二十回くらい近くの公園まで、お弁当を持ってピクニックに来ている。言うまでもなく、ピクニック大好き夫婦だからしょっちゅう行ってしまうのではなく、妻がどこか強迫観念にかられているようなかたくなさで、夫を誘う。結ばれている大人の男女の間に、付き合っていくなかで生まれるルール。第三者が聞けば、子どもじみているとも思えるそのルールを、律義に、辛抱強く守る姿は、けなげで切ない。たとえばあのドリームズ・カム・トゥルーの「未来予想図Ⅱ」の歌詞で有名な、帰りぎわにブレーキのランプを五回点滅させる、アイシテルのサイン。彼らの付き合いが三年、五年と長くなり、それでも会って夜に別れるたびにそのサインがくり返されていると知れば、なんだか切ない気分にならないだろうか。やはり最初の新鮮さはうすれるだろうし、アイシテナイ日も一日くらいあっただろう、とつい邪推したくなる。
 年に二十回のピクニックも、本当に楽しかったのはいくつくらいあったのだろうと考えてしまう。しかし二人にとってのピクニックが楽しみや絆の再確認ではなく、まったく別の目的だったと小説を読み進むにつれて分かったとき、夫婦っていいなあ、とうらやましくなった。一生一緒に生きるという誓い、たしかに重すぎて長すぎて、ときにはうんざりするときもあるだろうが、べたべたに甘い鎖であることも間違いないんだろうな、と思った。
 いろいろな人たちの生活を窓からながめているような短編集だとさきほど書いたが、反対に自分が通りすがりに、道路にたたずむ女の子の姿を見てはっとする、女性の主人公もいる。「おそ夏のゆうぐれ」の志那だ。彼女はもうとろとろに、愛しすぎている自分の恋人に、あなたが食べたい、と口走ってしまう。あなたを食べればあなたが私の一部分になり、なにも恐くなくなると思うの、と。男はおどろかずに、ナイフで、おや指の横から、手首の方向にむけて、左手の皮膚を薄くそぎ、彼女に与える。
 痛そう! とまず思うものの、とても官能的な場面で、本当に食べちゃってうっとりしている彼女の気持ちも分かる気もする。
 愛し愛されている幸福にひたりながらも、あまりにも従来の自分から遠いところまで流されてきたと不安も抱えている彼女は、おそ夏の夕暮れに、何をするでもなく表の道路にたたずむ八歳くらいの女の子を見て、心の色を変える。子どものころには想像もつかなかったやり方で男を愛している彼女が、手持ちぶさたそうな女の子に感じるシンパシーの強さの描き方が圧倒的で、なんとも言えず感動した。
 いろいろな人たち、はたからは穏やかな毎日を送っているように見えても、誰もが、日々の切なさや愛や葛藤を抱えながら生きている。その一つ一つをすべて知れば、あんまりに切なくてもだえ死にしそうだ。でも江國さんの小説の窓を通してそっと覗けば、繊細なちょうど良い距離で、それぞれの人たちの切なさを、甘く味わえる気がする。

 (わたや・りさ 作家)

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