書評・エッセイ

2012年10月号掲載

優美

――松家仁之『火山のふもとで』

川上弘美

対象書籍名:『火山のふもとで』
対象著者:松家仁之
対象書籍ISBN:978-4-10-332811-7

「『夏の家』では、先生がいちばんの早起きだった」という文章で始まるこの美しい小説『火山のふもとで』を、読めば読むほど、わたしは好きになる。
 語り手である「ぼく」、坂西徹は、大学の建築科を卒業したばかりの若者として、小説の中にあらわれる。時代は一九八二年、日本はそれまで続いた高度経済成長にときおり停滞をみながらも、全体としてはまだまだのびしろのある景気状況にあり、やがてきたるバブルを静かに待ち受けている、そんな時期である。
 ゼネコンの設計部に就職することにも、当時人気だったポストモダン系の設計事務所に所属することにも違和感を感じずにはいられなかった語り手「ぼく」は、ただ一人尊敬する建築家である村井俊輔、すなわち「先生」の事務所が新卒を採用しないことを知りつつも、求職の手紙を書き、投函する。採用の予定はないといわれながら、一週間後に「ぼく」は「先生」の事務所に招かれる。面接の結果、「ぼく」は事務所に就職することとなり、それからの一年と少し、そしてさらには三十年後の現在の物語が、小説の中で語られる。
 本書の魅力は第一に、明晰でよどみない言葉の使いかたにあるだろう。さまざまな建築や場所――物語の中だけにある架空のものも、現実のわたしたちの世界に存在するものも――について、作者は懇切に描写する。素晴らしいのは、その時の描写の言葉が、決して説明のための言葉にとどまることがないということだ。それら説明の言葉は、言葉自体が小説を豊かにする過程と結果そのものとなっている。
 たとえば、「先生」が設計した教会を描写するこんな文章――「天井近くに横一列に並ぶガラス窓は自動で開閉できるようになっていたが、ギアボックスが牧師室の裏に設置されているので、礼拝堂には開閉のモーター音が響かない。窓が開いているときは、街のざわめきが心地よく響く。外の木々が風に揺れる音、鳥の声、自動車が通りすぎる音。しかしいったん閉ざされると、こんどは自分の脈拍まで聞こえてきそうな静けさが満ちる」。
「描写する」という仕事において無駄と欠けがいっさいないうえに、文章自体から感じられる新鮮な息吹は、どうだろう。これはちょうど、「先生」の仕事について「ぼく」が感じている作中の文章――「ディテールにはすべて理由があって、あらゆることが可能なかぎり合理的に動かされていた」「わかりやすい自己顕示欲とも無縁のまま、質実で、時代に左右されない美しさを持つ」などで表現されていることと、同じことを作者がおこなおうと指向しているからではないだろうか。使われている言葉一つ一つは、わたしたちの目になじんだものなのに、それらが作者の手によって組み合わされると、まるでなめらかな愛撫を受けているような読みごこちをさそうのである。
 魅力的なのは、むろん言葉だけではない。物語の中で流れてゆく時間がまた、なんと豊かであることか。「雄大な歴史小説」といった内容でもなく、「一族のクロニクル的な物語」といった内容でもなく、たった一人の若い語り手が、彼の来し方をたんたんと語っているだけの話なのに、驚くほどたくさんの視点や景色が、この小説の時間の流れの中には示されている。脳細胞の中で実際に使われているのはごく一部のものであり、人間はその全部を活用できているわけではない、という内容のことを以前聞いたことがあるけれど、本書の語り手の脳細胞にかぎっていえば、わたしの脳細胞の二倍くらい活用されているのではないかなあと思ってしまう。
 人生って、こんなに色と香りと驚きと快感に満ちていたんだ!
 どちらかといえば禁欲的な内容の物語なのに、わたしは確かに、心からそう感じたのである。
 原稿用紙約六百五十枚というこの力作は、その言葉のはこびの優美さゆえに読み進むことは容易だけれど、その内容や示唆するところを語りきることは、とても難しい。なぜなら、一つの何かを取り出してかんたんに示すことのできる安逸さを、この小説が拒否しているからだ。それはおそらく、小説というものに対する作者の姿勢そのものが、見事なまでに昇華された結果であるにちがいない。新しくありながら円熟している。そんな作者の誕生を、心から喜びたい。

 (かわかみ・ひろみ 作家)

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