書評

2012年10月号掲載

ストーカーの〈分析〉、検事の〈衝動〉

――平山瑞穂『僕の心の埋まらない空洞』

大矢博子

対象書籍名:『僕の心の埋まらない空洞』
対象著者:平山瑞穂
対象書籍ISBN:978-4-10-472204-4

 平山瑞穂は一作ごとに作風が変わる、というのは以前より評判だったが、読み続けるうちに共通する核のようなものが見えてきた気がする。個性的なひとりの作家を追いかける醍醐味だ。よしよし、だんだんわかってきたぞ――。
 と思っていたら、また新たな引き出しが加わった。しかもサスペンスだ。ミステリーやサスペンスのジャンルとしては過去に『偽憶』(幻冬舎)があるが、今回はまた手法が異なる。なかなか「わかった」と思わせてくれないなあ。もしかしたら平山瑞穂って三人くらいいるんじゃないのか。
 今回の主人公は真面目にもホドがあるというくらい堅物の検事、荒城倫高(あらきみちたか)。若い女性事務官をつけても恋愛スキャンダルの心配は欠片もないと評判の愛妻家。青臭いと揶揄されるほどの倫理観。この若干浮世離れした真面目キャラは『プロトコル』(実業之日本社文庫)にも通じる著者の持ち味で、にやにやする読者も多いだろう。そんな倫高が転勤直前に担当したのが、ストーカー殺人の容疑者、鳥越昇(とりごえのぼる)だった。
 本当のことを知ってもらいたい、順を追って話したいという鳥越。婚約者がいるのに別の女性に執着し、追い回し、ついには死なせてしまった鳥越は、ストーカーも不倫も縁のない堅物の倫高とは対極にある人物だ。ところが鳥越の長い供述を聞くうちに、倫高の中に徐々に変化が起きて――。
 鳥越の供述は多分に身勝手で典型的なストーカーのそれだ。倫高の迷いも多分に身勝手で意志薄弱な男のそれだ。しかしどちらも、歪んではいるものの「恋愛」であり、こと恋愛となると、人は身勝手で自分に都合のいい妄想を抱きがち。読者にも、程度の差こそあれ身に覚えがあるだろう。後になって考えると「なんであんなことしたんだろう」と頭を抱えるような消したい思い出のひとつやふたつはあるはずだ。
 そんな消したい過去を持っている読者は、鳥越や倫高を完全には責められない。むしろ「そこで止まれ、それ以上進むとまずいぞ!」とハラハラしてしまう。そこで我慢しないと退っ引きならないことになるぞと思いながらも、その衝動を抑えることがどれほど難しいかを知っているから「こうならないといいな、でもきっと彼はそうしちゃうだろうな」と見えてしまう。その通りになることでさらに焦れる。先が読めるからこそサスペンスが増すという希有な例だ。
 何より、鳥越の供述と倫高の生活が交互に綴られるという構成が効いている。別にふたりの恋愛がクロスするわけではなく、別個の事象なのに、心理的なシンクロを見せるのだ。鳥越のひとりの女性に対する執着が次第に常軌を逸して行く様と、真面目なはずの倫高がその意味を充分理解しながらも自分の衝動を抑えられなくなっていく様は、別々の曲を同時に奏でている二台のピアノを想像させる。いつの間にかその二曲が絡み合ってひとつになるような感覚に囚われるのである。その音楽は物語が進むにつれてどんどん速くなり、どんどん勢いを増す。クレッシェンドに次ぐクレッシェンド。けれどあくまでも別の曲。歪(いびつ)な合奏。だからページをめくる手が止められない。
 ここで注目したいのが、いつしか二人の立場が逆転しているということだ。合奏に喩えるなら主旋律の弾き手が変わると言っていい。ストーカーは自らの行為を〈分析〉している。検事は自らの〈衝動〉に戸惑っている。この逆転の構図こそが本書のキモだ。被疑者と検事という関係はもちろん変わらない。ストーカー殺人の真相を追うという構成も変わらない。しかし読者の前に展開されるのは、供述する被疑者の与り知らぬところで徐々に蝕まれて行く真面目な検事の姿なのだ。
 鳥越の事件は故意だったのか事故だったのか、本書はその結論を踏まえた上で次の段階へと読者を誘う。奇を衒うトリックや驚愕の真相があるタイプの話ではない。むしろ誰にでもある衝動の行き着く先を幾つもの分かれ道とともに提示してくる物語だ。
 人は皆、鳥越にも倫高にもなり得る。自分はどこにあるのか。これが平山瑞穂の描くサスペンスなのである。

 (おおや・ひろこ 書評家)

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