書評

2012年11月号掲載

小川国夫のヘミングウェイ時代

――小川国夫『俺たちが十九の時 小川国夫初期作品集』

長谷川郁夫

対象書籍名:『俺たちが十九の時 小川国夫初期作品集』
対象著者:小川国夫
対象書籍ISBN:978-4-10-304204-4

 ヘミングウェイの旅行鞄は、よく知られた話かも知れない。ヘミングウェイは原稿を書きあげると、トランクに入れて、銀行の貸金庫に預けた。しばらく時間をおいて取り出し、手を入れてから発表するかどうかを判断した、という。かれは推敲型の作家だった。死後に見出されたトランクいっぱいの原稿類は、作家が発表されることを予想していない未定稿だった。ところが、それを出版しようと企むものが現われて、「ニック・アダムス・ストーリーズ」(一九七二年)ほか、いくつもの草稿が本となって世に送り出された。「未刊のままで眠っていた原稿」を「作者が眠ってしまったからというので、勝手に世に出す」という行為について、外山滋比古氏は「死者をおそれざる、冒涜である」と記している(「古典論」)。
 小川さんの仕事場に眠っていた原稿が初期作品集として出版されると聞いて、まず頭に浮かんだのは、このヘミングウェイの旅行鞄のエピソードだった。これは「作品」ではない。著者自身が納得し、そして著者と第三者による編集という目に見えない機能が活かされて、はじめて「作品」は誕生するのである。
 三十二年前、「想う人」と題して、小川さんの初期作品集を編んだことが思い出される。そのとき、小川さんの机辺に積まれた未定稿類について、同書に収めないものは、将来、手を入れて何かの作品に部分的に織り込まれるかも知れないが、そのまま活字にすることはない、と断言された。全集刊行の際には、未刊のまま放置されていた長篇に関しての意向も示された。「透明で、余分のものがなくて、きびしさを強調しないきびしさをもった文章」(吉行淳之介「『アポロンの島』」)は、推敲に推敲を重ねることで得られたものだった。小川さんの文章へのこだわりを知り、きびしい創作態度に身近に接した者には、作家の遺志を踏みにじる真似はできることではない。
 とはいえ、――
 いま、「俺たちが十九の時」としてまとめられたプレ・オリジナルを前にして、私が願うのは一つ、若き日の小川さんの声を聞くことだ。小川さんは晩年の随筆に、耳を澄まして、死者たちの言葉を聞きとりたい、「夢の中であってもいい、彼らの肉声が聞こえてこないかな、と願っているのです」(「死者たちの言葉」)と記した小説家だった。
 最初にヘミングウェイのエピソードが思い浮かんだのは、小川さんから東京にいた時分に「われらの時代に」を熟読したことがあると聞いた、四十年前の日が記憶に甦ったからだろうか。「移動祝祭日」というヘミングウェイのパリ放浪記(文章修業の記録、と記すべきかも知れない)を勧められたのも、その頃のことだった。「俺たちが十九の時」という語感と、鼻腔の奥に血の匂いが生温かく広がる“男の世界”は、ヘミングウェイの短篇に直結するものと思われるのである。「アポロンの島」(昭和三十二年)制作の動機の一因に、「われらの時代に」があったことは疑いない。
 蜜柑の生育には接ぎ木が必須の作業であると聞いたのは、いつのことだったか、正確には思い出せない。小川さんは昭和三十六年の入院時に、隣りのベッドにいた蜜柑農家の人(たしか、ゴン=中山雅史のお祖父さん、と聞いた)から詳しく説明を受けたのだ、という。ためらい傷や躓きの痕跡のあらわな草稿や断片を一読して、目を閉じると、駿河湾西岸地方の懐しい風景のなかに実生(みしょう)のままの蜜柑の小さな濃緑色が浮んでくる。小川さんの若い声が風に運ばれて、呻ぎのようにきれぎれに聞こえるのは、気のせいだろうか。小川さんの藤枝への帰郷は昭和三十五年。ふと、ここに隠されたメッセージは、その後数年におよぶ「移動祝祭日」の苦い記録なのかも知れない、と思えた。
「彼は下草に足を濡らした。彼は池の水門で立止り、水中の小魚を見ていた。無数の魚の針のような真直な背が、深い所まで重り合っているのが見下せた」(「魚の柱」)と、若き日の心象風景は青黒い色調のなかにたゆたっているが、そこに、苛立つ感情を抑えて、足場を踏みしめながら深淵を凝視する小川さんの姿が彷彿されるのである。
 戯文調の断章「おろかな回想」によって、小川さんに意外な方向への可能性があったのを知った。「永遠の人」を読んで、ユニアは浩であると確認できたことが、私には収穫だった。

 (はせがわ・いくお 評論家)

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