書評
2012年11月号掲載
武道から「宇宙」に迫る
――藤野眞功『憂国始末』
対象書籍名:『憂国始末』
対象著者:藤野眞功
対象書籍ISBN:978-4-10-329082-7
藤野眞功(みさを)『憂国始末』は、日本最大の空手団体の創始者一家および弟子たちをめぐる小説である。
「至一流空手道」の創始者、豊島仁一郎とその孫である良知(よしとも)と直備(なおび)の三人を中心とした話が大半をしめつつも、それぞれの関係者、家族などさまざまな視点から物語が描かれている。過去から現在まで、空手という武道のありとあらゆる側面に迫ろうとしているかのようだ。なにしろ冒頭におかれた「形」の章は、アメリカ人女性の視点から描かれているのだ。
豊島良知の妻ナオミは、良知が至一流のニューヨーク支部にいた関係で知り合った。のちに結婚し息子が生まれ、現在は東京で暮らしている。だが、正月を良知の実家ですごし、正座をはじめ日本の作法に悩まされていた。
続く「祖」の章は、明治四十三年に生まれた豊島仁一郎が武術の師匠と出会い、修行に励んだ経緯がつづられている。
さらに「先」の章では、おもに至一流本部道場で指導する面々についての話であり、空手に関する細やかな議論も登場する。たとえば豊島直備は、師範代であるとともに、総合格闘技イベントに出場するプロ格闘家でもあった。直備は、至一流こそが理想に近いもっとも完成された格闘技だ、と主張する。
また、道場には良知と同じく六歳から本部道場に通っていた、師範代の長江圭介がいた。あるとき、道場破りの二人組がやってきたが、長江が相手をつとめ打ち倒した。そんな長江に良知が空手を続ける理由を尋ねた。長江は「空手が好きなんですよ、とくに至一流が。男なら強くなきゃいかんと思います。そういう意味では、僕はまだまだ修行が足りませんね」と答える。
このように、空手道とそこに生きる者たちの世界が語られることで、格闘技イベント、スポーツ競技化、職業営利団体としての生き残りなど、現代の空手道が抱く諸問題が浮かび上がってくる。「形」「祖」「先」「師」とつづく章のつらなりはまるで「空手宇宙」をなしているようだ。空手をキイワードにした人物、出来事、歴史がさまざまに存在し、それぞれつながったり反発したりしながら時空に広がっている。それが本作を途中まで読み進めた感想だった。
だが、中盤から主題に向けたエピソードが徐々に展開していく。大物政治家を狙った事件が発生するのだ。「餐」という章では、長江圭介が妻の巴へ、三島由紀夫『豊饒の海』四部作について語るシーンがある。あれは傑作だと。なによりこの章では、三島の短編「憂国」の感興を移し替えたといっていいような夫婦の情交が描写されている。また、豊島仁一郎の半生をたどる章では、戦前の皇国思想や敗戦の責任についての話題に迫り、自死する者たちについて描かれている。
それにしても、なぜ武術が武道に発展すると、やがてある種の精神世界を求め、愛国思想へつながっていくのだろうか。あげく国を憂い、責任を感じ、命を投げ出す過激な行為へと向かうのか。あくまでおのれの強さにこだわった武術家たちが群れて団体をつくり宗教や政治に入れ込んでいく不思議。あげく自ら死を選ぶ思想へ傾倒する謎。
これはなにも「空手道」にかぎったことではないだろう。『憂国始末』には、近代日本がたどってきた、あらゆる道の原型が描かれているように思える。
日本人がことさら「和」を尊ぶのは、そもそもみんなばらばらだからではないのか。もとからひとつならば強調するまでもない。実際、都会の街並みを見れば一目瞭然である。思い思いの高さや色形をした建物が乱雑に立ち並んでいる。そこに自然な調和も整然とした規律もない。本作に描かれた空手の世界も同様だ。それゆえ一に至る道をことさら求める者が現れるのではないだろうか。
三島由紀夫は『豊饒の海』について、「小説家になつて以来考へつづけてゐた『世界解釈の小説』が書きたかつた」と述べたという。藤野眞功もまた『憂国始末』で、武道を通じ、さらに大きな世界を描ききったのだ。
(よしの・じん 文芸評論家)