書評

2012年11月号掲載

時空を超えて呼び交わす声

――ミハイル・シーシキン『手紙』(新潮クレスト・ブックス)

沼野充義

対象書籍名:『手紙』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ミハイル・シーシキン著/奈倉有里訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590097-7

 現代ロシアの作家、ミハイル・シーシキンの長編『手紙』は、一見したところ、愛し合う若い男女のほほえましいラブレターのやりとりから成り立った、単純な作品のように思える。男(ワロージャ)は「大好きなサーシャ」の名前を手紙の冒頭に書いただけで、「とても温かくて優しい気持ち」になってしまう。女性(サーシャ)のほうは、「今すぐ、あなたをぎゅって抱きしめたい。なんでもいいから、とってもくだらなくて、とっても大切な話をしたい」と、どこか遠いところに戦争に行ってしまったらしい彼に呼びかける。
 いまは離ればなれだが、この二人には郊外の別荘での大切な思い出がある。彼女はその初めての体験について、こんな風に書く。「その瞬間、突然わかったの。とても簡単なことなんだ。絶対に必要なんだ。ずっと待ち望んでたんだ――って(中略)。ずっと前から心の準備は出来てたし、待ってたけど、ちょっと怖かった」。それに続く描写は(ぜひ本を手に取って読んでいただきたい)、激しいセックスとバイオレンスを易々とグロテスクな意匠に変えてしまう現代のポストモダン小説(たとえばロシアのものだったら、ソローキンの『青い脂』(望月哲男・松下隆志訳、河出書房新社)を読むといい。これは別の意味で天才的な作品ではあるが)には絶対に見られない、清純で、このうえなく繊細な、心の微かな震えと喜びが響いてくるような文章である。
 しかし、読み進めていくうちに、この小説の時空間にはなんだか変なことが起こっていると気づかざるを得ない。戦争に行ってしまった恋人を待ち続ける女性は二〇世紀後半のロシア(まだソ連時代だろうか)に生きているらしいのだが、男のほうは、なんと一九〇〇年、義和団事件の鎮圧のために中国に行っているというのである(そして、出典は示されていないが、実在する従軍記に依拠した生々しい戦争の記述が続く)。しかも、ワロージャは戦死し、死亡通知をサーシャが受け取ったあとも、不思議なことに手紙のやりとりは続く。サーシャのほうは、恋愛と妊娠、家族の不幸といった出来事を経て確実に年をとり、実生活の時間が流れていくのに対して、ワロージャの時間は遥か彼方の戦場で凝固したままだ。
 そうだとしたら、この二人の手紙のやりとりは、どうなっているのだろうか。手紙は相手に届いているのか、疑問になってくる。それともこのすべては架空のやりとりなのだろうか? 宛先に届かない手紙というのは確かに現代的な主題ではあるが、その点に関して登場人物たちの信念は強い。ワロージャはこう言うからだ――届かないのは、書かれなかった手紙だけだ、と。つまり、書かれた手紙は必ず届く、ということだろうか。実際、戦死したはずのワロージャからは、こんな力強い言葉が届く。「サーシャ。どんな存在の証明がいるっていうんだ。僕は幸せなんだ、君がいて、君が僕を好きで、今これを読んでいてくれるだけで」。
 そもそも恋人たちは、この「時の流れが崩壊」した世界で――これはロシア語訳『ハムレット』からの引用だが、フィリップ・K・ディック風に言えば、「時は乱れて」の世界である――再会することができるのだろうか。二人が時間と空間に隔てられ、会えないままでいるのは、まだ「準備ができていない」からだろうか。疑問が深まっていくと同時に、暖かく、力強く、そして心に直接働きかけるような言葉が響いてくる。小説の末尾、ワロージャが正体不明の「彼」なる人物に誘われ、どこかに出発していこうというとき、彼はこういう――人間は「光と温もりの塊」でありつづけるだろう、と。ポストモダン・ロシアの荒野から出現した、啓示のような言葉ではないか。
 この作品以前からシーシキンは、チェーホフ、ブーニン、ナボコフから、ジョイスやフランスのヌーヴォー・ロマンなど、ロシアとヨーロッパ文学の様々な伝統を踏まえ、豊かな語彙と音楽的な文体、繊細な心理描写と、実験的な語りの手法を駆使する現代ロシア散文の最前線の作家として高く評価され、権威ある文学賞を次々に受賞してきた。いまや現代ロシアで最も実力のある作家の一人と言ってもいいだろう。これまで日本では「バックベルトの付いたコート」という自伝的短篇が一つ訳されただけだったが(沼野恭子訳、『新潮』二〇一一年五月)、今回の作品でようやく本格的な紹介が始まった。手紙はきっと恋人たちのもとに届くだろう。そしてこの『手紙』も、日本の読者たちの心に。まるでサーシャになりきったような奈倉有里さんのしなやかな訳文のおかげで。

 (ぬまの・みつよし スラブ文学者)

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