書評・エッセイ

2012年11月号掲載

父の戒めどおりの暴露作

――山口正介『江分利満家の崩壊』

嵐山光三郎

対象書籍名:『江分利満家の崩壊』
対象著者:山口正介
対象書籍ISBN:978-4-10-390605-6

 筆者の山口正介氏は山口瞳の息子である。一九九五年に父瞳が没し、二〇一一年三月に母治子が没し、ひとりぼっちになった。
 山口瞳は一九六三年に『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞を受賞し、没後も根づよいファンを持つ国民的小説家である。「江分利満」(つまりエブリマン)は、六〇年代に台頭した中産階級のサンプルであって、世間とのつきあいを大切にして、つつましく、一途に生きる人々への賛歌だった。偏屈でガンコで融通がきかないけれど人情がある。
 山口瞳が人気絶頂にあったとき、正介氏は映画評のほか小説、旅行記を書いていたが、どこかものうげな重圧に耐えているように思われた。人気作家のひとり息子であり、父瞳が「週刊新潮」に連載していた『男性自身』に登場するモデルの役をはたしていたからだ。それは治子夫人も同様で、私生活をあれこれと書かれる家族のプレッシャーは、なった者でなければわからない。
 山口瞳が六十八歳で没したとき、山口正介氏は『ぼくの父はこうして死んだ』を書いて長年にわたる父親との決着をつけた。生前の山口瞳は正介氏にむかって、歌人Y氏の息子のように「父への反発」の手記を書くなと命じた。そのいっぽう「秘密の暴露のない私小説は駄目」ともいった。エッセイでは日常の愉快な話を書く山口瞳だが、小説では一家の秘密を暴露した。庶民への共感を示し、社交的でありつつも、一貫して「父親との確執」を書きつづけてきた。
 山口瞳の葬儀のとき、町の親しい長老が、「正介君、これから自分のやりたいことをやりなさい」と励ましてくれた。そのとき、正介氏は「問題は母のほうだ。いままで父と分担していた母の面倒を、ぼくひとりが見なければいけない」と覚悟した。母治子には不安神経症、いまふうにいえばパニック障害という症状がある。ひとりで電車に乗ることができない。どこかへ行くときは正介氏が同行しなければいけない。正介氏の帰宅の門限がきめられている。無断外泊は禁止。
 母治子は鎌倉アカデミア時代から短歌を詠み、文学少女だった。大変な読書家で、向田邦子にいち早く着目したのは治子さんだった。山口瞳没後、『瞳さんと』という本を刊行している。そのうち、山口瞳が小説『人殺し』を執筆するとき「京都で浮気をした」という噂をききつけて、時系列で「事実はどうか」をさぐる『「人殺し」の頃』というノンフィクション小説を書きはじめた。没した夫の「浮気」を調査検証しようとした。瞳さんはもう亡くなったんだから、すんだことはいいじゃないか、では治子さんは納得しないのである。
 山口瞳は「妻の病気は原因不明」としながらも、病気の原因は「自分にある」と思っていたふしがある。山口瞳が没したあと、治子夫人は別人のように元気になり、行きつけの画廊エソラで毎年の暮れに開かれた山口瞳追悼ハガキ絵展にもよく顔を出した。山の上ホテルで山口瞳十三回忌をしたときは「息子が死ぬことよりも瞳さんが死んだときのほうがずっとつらい」といって周囲の人をおどろかせた。
 家では「あたしはパパのお箸を、毎日チュパチュパって舐めていたかったのに、お箸がどこかへいっちゃった」といって、正介氏を困らせた。瞳さんのお箸はお棺に入れて焼いてしまった、というのに。
 ガンで終末期を迎えた治子さんを介護しつつ、正介氏はひとりで伴走した。この書は、「わがままな母」を最後まで看取った正介氏の奮闘記である。であるのに、「パパもわたしも優秀だったのに、あんたはなにをやっているのよ」と「女帝」が叱る。「映画なんか観るな。誰のおかげで観られるんだ。いつまでも甘やかさないわよ」。
 治子さんは入院した病院で、自分の眼鏡をひねって壊し、眼鏡のツルで手首を傷つけ、点滴のチューブで首を絞めて自殺しようとした。
 壮絶な母子関係で、ここまで書かないでもいいだろう、とはらはらするほど山口家の秘密が暴露されるが、悲壮感はなく、山口家の濃密な信頼関係に胸をうたれる。そして正介氏は「お父さんはやっぱり瞳、お母さんは治子がいい」とつぶやくのである。

 (あらしやま・こうざぶろう 作家)

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