書評・エッセイ

2012年11月号掲載

現代中国を感得するための一書――文学と歴史の狭間で

――陳冠中『しあわせ中国 盛世2013年』

辻康吾

対象書籍名:『しあわせ中国 盛世2013年』
対象著者:陳冠中著/辻康吾監修/舘野雅子・望月暢子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-506361-0

 たしか歴史学者のE・H・カーだったと思うが、歴史を理解するためにはその時代に関する文学を読むように勧めている、といっていた。一つの時代を理解するには特定的事象を深く追求するモノグラフィ的研究、その集成としての通史が重要なことは言うまでもないが、歴史書が書き切れないある時代の「色彩」を知るのには文学が重要である。フランス革命を知るために『レ・ミゼラブル』を、明治時代を理解するために『坂の上の雲』を読むのも悪くない。たとえそれが作者の主観や偏見によるものであったとしても、文学作品を通じて一つの時代を鳥瞰することができる。さらにそれが同時代史、未来史であっても、一つの時代の全体像、時代の雰囲気をリアルに映し出すことができる。
 今回翻訳、監修作業にかかわった陳冠中の『しあわせ中国 盛世2013年』は謎解き仕掛けの近未来小説であるとともに、今日中国で展開されている人間模様、権力者から庶民までの生きざま、ひいては街や村の物音、色彩、匂い、料理の味までが伝わってくる。個々の中国人の感情、情緒、情念は客観的学術研究では描かれないが、作家の想像力、創造力を通じてはじめて理解できるものとなる。本書はすぐれた文学作品であるとともに、多様な素顔を持ち混沌を極める中国への多角的な理解を深めるものとなっている。
 私は若いころからジョージ・オーウェルの『1984年』や『動物農場』、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』、とりわけ『火星年代記』に熱中し、その後、伝記・歴史小説から歴史について教科書以上のことを学んだ。結局は中国関係の取材や研究をすることになったが、私にとってこの『しあわせ中国』ははじめてと言ってよいほど、文学的満足感と関心の対象である中国問題を違和感なく結び付けるものとなった。現代中国文学というならば、魯迅、巴金、劉賓雁など偉大な作家たちがいるのだが、中国という重厚な歴史、伝統、文化の中で生まれたそれらの作品は、その重荷のため局地性を乗り越えることは容易なことではないようだ。
 ノーベル文学賞が文学作品の世界的普遍性を証明するものではないにしろ、2000年に受賞した高行健(2000年受賞 パリ在住 中国国内では無視されている)、今回受賞した莫言なども登場しているが、本書はこの高い壁を軽々と乗り越えたようだ。初版から3年、すでに12カ国語で翻訳、多くの国で出版されていることからもそのことが証明されている。
 謎解き仕掛けの作品だけにそのネタをここで明らかにするわけにはいかないが、作品中の狂言回しで作家である老陳と、体制に絶望した小希との間の中年の交情。あるいはレンガ窯での奴隷労働を逃れた張逗と張逗を保護しながら正気を失っていく妙妙の美しい関係。いずれも私の胸を締め付ける。そして最後に「しあわせ中国」の謎を暴露する政治局委員の何東生の延々と続く独白と、すべては「国のため、民のため」と叫んでも最後まで信じてもらえない彼の苦しみは中国政治の深淵をのぞかせている。
 尖閣問題、あるいは南シナ海の領海問題など、その度にちらつかせる軍事大国の顔など、日本はもちろん、世界的に中国へ向けられる目は不信の色を濃くしている。その背後にある、実は中国人自身さえ分からぬ、混迷の中国の実態を本書は感得させてくれる。そしてどうかこの作品を読了された方は作中で引用されている馬致遠の元曲の一節「見よ、くまなく地を覆うアリの布陣を、ぶんぶんと乱れ飛ぶハチの蜜作りを、わんわんと騒ぐハエの血の争いを」の一節を想起、玩味していただきたい。

 (つじ・こうご 中国学)

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