書評

2012年12月号掲載

数学愛好家のクラブへようこそ!

――マーカス・デュ・ソートイ『数字の国のミステリー』

茂木健一郎

対象書籍名:『数字の国のミステリー』
対象著者:マーカス・デュ・ソートイ著/冨永星訳
対象書籍ISBN:978-4-10-506371-9

 数学が苦手という人は多い。「数学」という言葉を聞いただけで、逃げだそうとする人をよく見かける。困ったことに、そのような数学不安症が、最近になって科学的に裏付けられてしまった。シカゴ大学を含む研究チームの実験で、数学が苦手な人が問題を解こうとすると、「痛み」を感じる脳の部位が活性化するというデータが報告されたのである!
 一方で、三度の飯よりも数学が好き、という人たちもいる。私の友人の脳科学者は、学生時代のある日、午後四時くらいから計算を始めた。午後八時までやっているカレー屋さんに行こうと、楽しみにしていた。解き終えて時計を見ると、七時である。間に合う! と下宿のドアを開けると、何やらおかしい。さわやかな風が吹き、鳥たちがチュンチュン鳴いている。なんと、「午後七時」ではなく、「午前七時」だったのだ!
 数学が苦手、嫌いという人にとっては、数学に時を忘れるということ自体、信じられないかもしれない。しかし、数学という世界は、一度入ってしまえば、汲めども尽きぬ喜びに満ちている。問題は、「クラブへの入会」の敷居が高いこと。苦手意識を解きほぐしてくれる、水先案内人が必要だ。
 マーカス・デュ・ソートイ著『数字の国のミステリー』(冨永星訳)は、数学が好きな人はもちろん、苦手意識がある人にとっても、数学の世界のすばらしさを教えてくれる傑作である。あなたも、この本を読んで、数学愛好家のクラブに入りませんか?
 著者は、オックスフォード大学の、科学についての啓蒙(public understanding of science)のために創られたシモニー講座の教授。進化論について多くのすぐれた著作のあるリチャード・ドーキンス教授の後を継ぎ、大きな期待を集めての就任だった。
 難解な数学の理論の神髄を、一般読者にもわかりやすく届けるデュ・ソートイ氏の手腕には、定評がある。二〇〇六年には、一一歳から一四歳の子どもに向けての「クリスマス・レクチャー」を担当した。偉大なる物理学者マイケル・ファラデーの始めた伝統が息づく、晴れ舞台に立ったのである。二〇〇八年にはBBCとともに数学の歴史についての番組を制作し、好評を博した。
 本書でも、その親しみやすい語り口は健在だ。デイヴィッド・ベッカムがリアル・マドリッドに移籍した時、なぜ背番号23が選ばれたのか。一七年に一度発生する素数ゼミの謎。NASAから「宇宙人」へのメッセージ。自然界の「かたち」の中に現れるフィボナッチ数。英国の海岸線は、どれくらいの長さか。
 これらの話をきっかけとして、デュ・ソートイ氏は巧みな話術で数学の「奥の院」に読者を導いていく。そして、リーマン予想、ポアンカレ予想、NP完全問題、楕円曲線、そして流体方程式といった、一〇〇万ドルの賞金が懸かった「ミレニアム」問題の解説によって、各章はクライマックスを迎えるのだ。
 それにしても、数学の世界に惹きつけられる人間のドラマの、何と興味深いことか。「数学者につきものの奇行のひとつに、電話番号が素数かどうかをチェックするという行為がある」と著者は書く。そういう本人も、素数の番号にこだわって電話会社のオペレーターに怒られる。そんな風変わりな数学者の世界がかいま見えるのも、本書の醍醐味の一つだろう。
 そして、数学と歴史の意外な関わり。第二次大戦中、ドイツが開発した暗号システム「エニグマ」を、イギリスの数学者たちが解明した。この成功により、数学者たちは第二次世界大戦を二年ほど早く終わらせ、無数の命を救ったとされている。
『数字の国のミステリー』を読むうちに、数学好きは愛が深まる。そして、数学嫌いも、著者の巧みな話術に夢中になっているうちに、コーヒーに入れた砂糖のように、苦手意識が溶けていくことに気づくはずだ。
 数学愛好家のクラブへようこそ! 大したおもてなしはできませんが、一生かかっても味わい尽くせないような、静かで深い喜びがあなたを待っています。

 (もぎ・けんいちろう 脳科学者)

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