書評

2012年12月号掲載

うんざりした時代の光明

藤原章生『資本主義の「終わりの始まり」ギリシャ、イタリアで起きていること』

内山節

対象書籍名:『資本主義の「終わりの始まり」ギリシャ、イタリアで起きていること』
対象著者:藤原章生
対象書籍ISBN:978-4-10-603719-1

 世界はいま、変わらざるをえないところに追い詰められている。何が原因なのか。どのように変わろうとしているのか。
 この問いに対する答えを、主にイタリアのさまざまな学者や、社会の現実と向き合っている人たちとのインタビューを重ねながら、今日のギリシャ、イタリアといった南ヨーロッパの情況からみつけだそうとする試みが本書である。この作業からみえてきたもののひとつ、それは、資本主義に内在化されている非合理な本質が、現在、顕在化してきているということだった。
 資本主義は、市場を通して合理的に展開する経済システムだと思われがちである。できるだけ規制を緩和し、市場に委ねていくのがもっとも合理的な結果をもたらすと考える市場原理主義が登場してくる土台もここにある。だがこの本に登場してくる多くの人々は「そうではない」という。資本主義はいくつもの非合理な前提の上に成り立っている「宗教」のようなものなのだと。
 永遠に経済成長を遂げつづけるという前提のもとに、このシステムは動いている。それはありえない非合理だ。自然を共存のパートナーとするのではなく、経済の資源として人間の手段にしていくシステム。ここにもいつか破綻するであろう非合理が内在されている。もっとも大きな非合理は、経済が神のように振る舞い、政治も社会も、文化でさえ経済の奴隷に変えてしまうことだ。そのことが社会や人間関係、家族や地域などをゆっくり、ときに急激に破壊しながら、人間社会の持続性を危機に陥れていく。それらを怠惰に受け入れてきたのが、資本主義の時代であった。
 これらの非合理が、ギリシャやイタリア、スペインといった国々では、国家の経済破綻とともに現実化し、経済的利益の追求がときに社会を「終わらせ」てしまいかねないことを教えたのが、福島の原発事故だった、と本書は訴える。
 私たちはこれまでとは異なる構想力をもって、新しい時代の扉を開く必要性に迫られている。とするとその構想力はどこから生まれるのか。それは過去と向き合うことからだと登場人物たちは語る。資本主義によって何が失われたのかを知ること、それが未来への構想力を生みだすのだと。そして無意識のうちにそれを知っているがゆえに、今日の社会改革運動は、近代的なイデオロギー対立や政治対決のかたちを回避している。それは家族のとらえ直しであったり、地域やコミュニティの再創造であったりする。あるいはそういうものを根底に置きながら、ネットをとおして自由に結びあう、指導者のいない社会運動だったりする。
 資本主義とともに生まれた仕組みに人々がうんざりしはじめた時代、そこに今日の現実と未来への可能性をみる、本書の深さはそこにある。

(うちやま・たかし 哲学者・立教大学大学院教授)

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