書評
2012年12月号掲載
自然とともに生きてきた日本人の姿
――高山文彦『大津波を生きる 巨大防潮堤と田老百年のいとなみ』
対象書籍名:『大津波を生きる 巨大防潮堤と田老百年のいとなみ』
対象著者:高山文彦
対象書籍ISBN:978-4-10-422205-6
誰かによって書かれなければならなかった物語――というものがある。本書を読み終えたとき私が真っ先に胸に抱いたのは、この本もまたそのような種類の一冊であった、という感慨だった。
本書『大津波を生きる』は三陸沿岸の田老の近現代史を描いている。二〇一一年三月一一日の津波災害において、甚大な被害が発生した田老は津波の威力の大きさを物語る上で象徴的な場所となった。そこに高さ一〇m、縦延長二・四kmにも及ぶX型の防潮堤があったからである。
「万里の長城」とも呼ばれたこの防潮堤をめぐっては、震災後に様々な意見が交わされてきた。一〇mもの高さを波が乗り越えたことで、堤防は役に立たなかったとする意見もあれば、いや、この防潮堤があったからこそ津波の到達が遅れ、避難の時間を稼ぐことができたのだという意見もあった。しかし、本書はそうした表層的な議論を離れ、さらに奥深くにある巨大防潮堤の歴史的な本質へと迫っている。
昭和八年の大津波の後、国や県が高台移転を勧めるなか、なぜ田老ではいち早く村単独の事業として堤防を築く決定が下されたのか。著者・高山文彦氏の視線は常に田老を捉える一方、当時の時代状況を幅広く見据えている。その視野は明治・昭和の大津波と同時代を生きた宮沢賢治の生涯、民俗学者・柳田國男の思想の変遷、関東大震災の復興に尽力した後藤新平の帝都復興計画にまで及ぶ。
とりわけ興味深いのは、東京を〈燃えない都市〉に作り変えようとした後藤新平の当初の計画が、村長の関口松太郎によって田老で実現されていったという指摘だ。関口松太郎はそのために二人の技師を東京から呼び寄せ、防潮堤と網の目のような避難路を新しい町に作り上げる。大津波で深く傷ついた田老の人々を奮い立たせ、〈被災者を「復興者」として意識改革〉しようとしたというその手法には膝を打つ思いがした。
田老の防潮堤は昨年の津波で高度経済成長期に延長した箇所が壊れ、古い方の堤防が残った。新しい防潮堤が津波を受け止める形で建設されたのに対し、関口松太郎の時代に作られた防潮堤は津波を川に導き、威力を減殺する発想が採用されていたからだという。そこから著者が浮かび上がらせるのは、幾多の大津波に翻弄されながらも自然を支配しようとはせず、共生することで「海の恵み」に近づこうとした人々の闘いであり生き方だ。そして、それは地震や水害、津波などの災害が頻発するこの日本で、自然とともに生きてきたかつての日本人の姿でもあるのだろう。
それにしても本書を読んでいると、過去三度の大津波の体験者の声のみならず、その背景として綴られる淡々とした歴史描写に何度も胸打たれ、目頭を熱くさせられるのはなぜだろう。実は昨年の震災以降ベストセラーとなった吉村昭著『三陸海岸大津波』の文庫版に、著者は解説を寄せている。その中に次のような記述がある。
〈卓越した記録者とは、記録することの叶わなかった人間の声ばかりか、草や岩や魚や水といった無言のものたちの声まで運んでこようとする。証言者の声は、彼らの声に磨かれて、さらに輝きを増すのだろう〉
吉村昭氏の記録文学の魅力を評したこの言葉は、そのまま本書にも当てはまる。ならば著者は田老の一〇〇年にわたる闘いと敗北を描くことで、新たな『三陸海岸大津波』を世に問おうとしたのではないか。
一見すると三陸沿岸とは関係なさそうな時代の大きな流れを、田老という小村に収斂させていく手法は見事という他ない。そして何より、過去の津波で多くの史料が失われてしまった田老の歴史の空白を、様々な状況証拠から推察し、埋めようとする筆致からは、それを書かずにはいられないという執念のようなものが伝わってくる。だからこそ、と言ってよいのだと思う。田老に生きた人々の声は歴史の中に確かな役割を与えられ、真っ直ぐに読む者の胸へと響くのだ、と。
(いないずみ・れん ノンフィクション作家)