書評・エッセイ

2013年1月号掲載

「性欲」だって脳科学

――池谷裕二・中村うさぎ『脳はこんなに悩ましい』

池谷裕二

対象書籍名:『脳はこんなに悩ましい』
対象著者:池谷裕二・中村うさぎ
対象書籍ISBN:978-4-10-132923-9

 脳の研究現場は毎日がわくわくの連続です。知れば知るほど奥深く、さらなる探究心がくすぐられます。この高揚感を多くの方と共有したいと願っています。
 これまで、偶然にも本を出版する機会に恵まれ、脳の面白さを精一杯に紹介してきました。その一方で、多少のもどかしさも残してしまいました。それは私が取り上げてきた話題が偏っていたことです。
 たとえば、「性」の話題はできるだけ避けてきました。理由はいろいろあります。話題として取り上げることに気恥ずかしさを感じるという点と、たとえ取り上げなくとも、脳の話は十分に面白いという点が挙げられます。
 さらに言えば、「下ネタで笑いを取るのは簡単だよ。でも、プロの仕事ではないね」という萩本欽一さんの言葉も気になっていました。私は芸人ではありませんが、セックス抜きで、どこまで脳の面白さを伝えられるかを、自分に課してきたという側面があるのも事実です。
 しかし四十代になった今、この考えが変わってきました。ヒトの三大本能は性欲・食欲・睡眠欲です。この一つに触れずして、脳の真相を伝えたことになるのでしょうか。重要なパズルピースを万遍なくカバーして、「ヒト」の心の全体像を炙り出すような本をつくってみたい――そんな経緯で、自著としては初めて「性」にも触れた『脳はこんなに悩ましい』を、この度、上梓する運びとなりました。
 オルガズムのとき、失恋したとき、嫉妬するとき、美人に見つめられたときに、脳がどう活動するか――そんな科学的知見を脳研究者が高い精度で解説した本は珍しいはずです。
 本書の最大のポイントは、なんといっても、中村うさぎさんとの対談本であることです。
 中村うさぎさんといえば、私にとっては、買い物依存症はもちろん、美容整形やホスト通いを赤裸々に綴りながら自己実存を抉る作家として身近な存在でした。とりわけ、風俗やセックスを通じて女である自分を偏執的に意識するスタイルに好感をもっていました。表層的な娯楽性と哲学的なメンタルトラベルを両立させるバランス感覚を持つ方はそういません。
 その中村うさぎさんが脳に興味を示していると伺ったのは、著作スタイルに悶々としていた私にとって、願ってもない知らせでした。夢かなってご一緒する機会をいただき、勘の的中を確信しました。そう、会話が楽しすぎるのです。
 タイミングよく新潮社のサポートを得て、対談シリーズを始められたのはラッキーでした。中村うさぎさんの胸を借りる形で、一般的な心脳トピックはもちろん、性や男女、宗教や芸術についても縦横無尽に二人で語りつくしました。
 とくに二人が受けたDNA検査のくだりは、多くの読者がショックを受けるはずです。遺伝子は「自分探し」の究極の手段です。中村うさぎさんも私も「自分」について知りたいという欲求が強く、個性デフォルトと環境作用の会話が進むうちに、「ならば遺伝子を調べてみようか」と自然と着地しました。
 日本ではまだ、自分の遺伝子を調べて、性格や病気を知ることは一般的ではありませんから、今回の試みは、時代を先取りしすぎたかもしれません。しかし近い将来、遺伝子型は、戸籍や運転免許のように各人必携の個人情報になるはずです。つまり今回の試みは、世間への挑発でなく、未来の「常識」の模擬体験です。
 研究界では、毎日のように、興味深い知見が湧き出しています。この湧き水は尽きることがないようです。現役の研究者である私の売りは、湧きだしたばかりの新鮮な知見を提供できることです。今回の本では、対談形式ということもあり、詳細な実験手順や専門的な研究背景が説明できませんでしたので、これを補うために巻末に出典を載せました。参考文献は二百五十七報に及びます。どんな些細な発言であっても、その根拠となる引用元を提示することは、プロの研究者として最低限のマナーです。下ネタであろうと無責任な発言はしない――これもまた本書の重要な特徴です。
 最後に、正直に告白します。今回の対談は、その後の編集作業も含めて、過去の自分の本のなかで一番楽しいものでした。自分でも驚いています。中村うさぎさん、こんなに素敵なチャンスをくださいまして、本当にありがとうございました!

 (いけがや・ゆうじ 脳研究者。東京大学大学院薬学系研究科准教授)

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