書評
2013年2月号掲載
言葉を物として描くこと
――安部公房『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』
対象書籍名:『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』
対象著者:安部公房
対象書籍ISBN:978-4-10-112126-0
誰でも思春期のある時期に外界のすべては夢ではないかという思いに襲われる。それからおもむろに、書くことが始まる。つまり、「僕は唯書きたかったのです。あえて言えば、理由も無く書きたかったのです」(「第一の手紙」)という世界が始まる。夢も現実も言語現象にほかならない。書くことへの執着はその発見を意味している。世界はたやすく反転する。裏返しになった顔の世界、左右が逆転した世界がこうして始まる。
これを抽象空間と言っても、夜の世界と言っても同じことだ。人は外界を光によってのみならず言葉によって見る。事物の輪郭は言葉なのだ。言葉が失われた世界は光が失われた世界、すなわち夜だ。「夜 宇宙をいっぱいに孕んだ風が 私たちの顔を削りとるとき」とリルケが囁くとき、光と言葉は同じ響きを帯びる。顔すなわち言葉。言葉のない世界、すなわち夜の世界こそが、若き安部公房の世界であったことは、『無名詩集』すなわち名(言葉)のない世界という処女詩集の表題にも明らかである。
思春期のこの覚醒はデカルトからカントを経てフッサールにいたる現代思想の領域に重なっている。たとえば数学も言語現象なのだ。「憎悪」の一節を引く。
「先ず場所は抽象空間、時は時計の針の中、人物は究極概念……いくら君でもこのリアリズムを拒否する訳には行かぬだろう。文学的教養中に一切を含ませる君のことだから、定めし数学的教養も高いことだろうと思うのだが、まさか君が生れそして死ぬまで育った所が抽象空間以外の空間だった等とは言えまい。」
「君」は安部公房の分身、抽象存在の別名。
「僕は君がまさか公理主義者だとは思わなかったのだ。その扉の構造をよくしらべる内に、その本質が公理主義に他ならぬことをつき止めると、僕は忽ち扉が音をたてて自然に開くのに気付いた訳だ。」
「公理主義」は数学者ヒルベルトの公理主義。これがゲーデルの一撃によって震撼させられたことは言うまでもない。その後の台詞「喋っても何んにもならぬと喋べること」は「私は嘘をついている」という自己言及のパラドクスの変容である。リルケからゲーデルにいたる領域、現象学から構造主義にいたる領域を、若き安部公房は先取りするように問題にしていたわけである。
『(霊媒の話より)題未定―安部公房初期短編集―』は安部公房が十九歳から二十五歳にかけて書いた短篇十一篇から成る。表題作のほか、「老村長の死」「第一の手紙~第四の手紙」「白い蛾」「悪魔ドゥベモオ」「憎悪」「タブー」「虚妄」「鴉沼」「キンドル氏とねこ」の十篇は全集に収録されているが、三番目に置かれた「天使」だけは新発見の短篇で、本書が単行本初出。執筆順に並べて読み直してみると、思考が深められ、表現が高められてゆくさまが手に取るように分かる。
「(霊媒の話より)題未定」から叙情――「日本浪曼派」から批判的に摂取したと思われる逆説的つまり後期ロマン派的叙情――を拭い去って、論理の骨格をそのまま現実的な物語へと転ずれば、「天使」になる。人は世界をまったく別様に見ることができる。解釈することができる。この世の現実は仮構にすぎない。そういう論理が鋭利になっているだけではなく、表現が新たな次元に突入しているのだ。「一瞬更に一瞬、点滅するその音、殊にその沈黙の間が、私を夢中にさせて了った。耐え切れぬ期待の為に、全神経は火の様に赤熱し、口の中で歯がキリキリと鳴った。それが合図で激しい痙れんが指先から始まり、全身を覆った。」ここでは精神的な事象がすべて身体的な事象に置き換えられている。
鋭い一線が「鴉沼」と「キンドル氏とねこ」の間に引かれる。この短編集では最後に置かれた「キンドル氏とねこ」が、「デンドロカカリヤ」や「赤い繭」「壁―S・カルマ氏の犯罪」など、いわゆる安部公房ふう作品の端緒となる短篇であるとすれば、「鴉沼」は、「(霊媒の話より)題未定」から始まって「終りし道の標べに」を通ってきたひとつの道筋の最終到達点を示している。安部公房二十四歳。異様な出来栄えである。いわゆるラテン・アメリカ文学の魔術的リアリズムをはるかに先取りしている。植民地で迎えた敗戦と暴動を背景にしているが、作品の主眼は政治社会にはない。ひたすら限界状況に置かれた人間にある。ここでは身体の描写がそのまま精神の描写になっている。天才的な達成と言っていい。
「鴉沼」にいたる最初期・安部公房の世界が綿密に論じられる日が待たれる。
(みうら・まさし 文芸評論家)