書評
2013年2月号掲載
「かわいい」と「カワイイ」
――大平健『治療するとカワイクなります 生きがいの精神病理』
対象書籍名:『治療するとカワイクなります 生きがいの精神病理』
対象著者:大平健
対象書籍ISBN:978-4-10-328872-5
この本のタイトルを見た時、私は「何となく……、わかる!」と思ったことを覚えています。精神科の治療がどのようなものかを全く知らない私ではありますが、「治療すると」、きっと人は「カワイク」なるに違いない、と漠然と思えた。
ではどのように人はカワイクなるのか、という興味を抱かせる時点でこのタイトルはとても優れていると思うのですが、読むうちに私は、「カワイイ」ということの意味も考えさせられることとなったのでした。
カワイイという言葉は、私達にとって子供の頃からずっと共にあるものでした。カワイイと言われると嬉しかったし、カワイイと言われるために努力もした。そしてこれからもずっと、カワイイと言われ続けたいという欲求から逃れられない予感もしている。
「カワイイ」とは、私が子供の頃は、女子供にのみ使用される言葉でしたが、ここ数十年で、使用の範囲はどんどんひろがってきています。男性も「カワイイ」と言われるようになりましたし、お年寄りもまた「カワイイ」。将来の目標として、
「カワイイおばあちゃんになりたいです」
と言う若い女性も、多いものです。だからこそ我々は、「ずっとカワイクあらねばならぬ」というプレッシャーにさらされているわけですが。
「カワイイ」と言われるのは人だけではなく、物品もまた「カワイイ」し、行為や現象も「カワイイ」。「カワイイ」は、とても便利な言葉となりました。
何となく「カワイイ」という言葉を使い続けていた私ではありますが、「カワイイ」の使用範囲が広がるにつれて、その意味も単純でなくなったのだと、本書を読んで気づかされました。大平先生は「かわいい」そして「カワイイ」と書き分けることによって区別していましたが、他者と比較対象した上で、「○○より××だから」という理由によって評価されるのが、「かわいい」。そして、一対一の関係の中で、相手が相手自身であるからこそ抱く感覚が「カワイイ」。相対評価の「かわいい」、絶対評価の「カワイイ」と言っていいかもしれません。ということは、私達が抱く「ずっとカワイクあらねばならぬ」というプレッシャーも、「ずっとかわいくならねばならぬ」ということなのかも。大平先生は、様々な症例を見ていくうちに、
「あれ? 患者がすっかりカワイクなっている」と思われることが多々あったそうで、特に昨今はカワイクなる患者が増えているとのこと。一つ一つの症例を読むと、患者さんが先生と会話し、治療を続けるうちに、自分の心の中で絡まっていた感情をほぐしたり、仕分けたり、絡まった原点を見つけた時に、カワイクなっていく様子が見受けられます。悩みやストレスといったものによって覆い隠されていた素の感情が自分で確認できた時、人はカワイクなるように私には思えました。
普段、私達は「かわいい」と「カワイイ」の違いを、意識していません。心の底では「カワイク」なりたいと思っているのに、他人と接しているうちに、ある物差しの中での「かわいさ」を求めるのに必死になっていたりする。
その典型的な場が、恋愛なのでしょう。恋愛問題について大平先生は、「トキメキ無し恋愛」が増えてきた、と書かれます。そもそも恋愛は、自分を絶対評価してくれる相手と、「カワイイ」と思い思われる行為であったはず。しかし最近は、「恋人はいないよりいた方がいいし」とか「この人は今までの中ではかわいい方かな」と、トキメキ抜きで恋愛する人が多くなっている、というところで、私は「確かに」と膝を打った。
「カワイイ」の意味が限定的であった頃に比べて、人々の心も、心が抱える問題も、様々な変化にさらされていることが、この本においてよくわかった私。「個の尊重」という課題を持ちながらも、一方では家族との絆を深めたり恋愛を成就させたりしなくてはならない現代人は、常に「個」と「絆」の共存という、矛盾の中を生きているのです。
全体的に鬱は軽症化していると本書にはありますが、「鬱っぽい人」は増えています。それもまた現代ならではの現象なのでしょう。多くの人の心を覆ううっすらとしたもやもやとしたものを晴らすキーワードとして、「カワイイ」はよく効くのではないか、と思ったことでした。
(さかい・じゅんこ エッセイスト)