書評

2013年2月号掲載

我々はなぜ情報に振り回されるのか?

――ジェイムズ・グリック『インフォメーション 情報技術の人類史』

西成活裕

対象書籍名:『インフォメーション 情報技術の人類史』
対象著者:ジェイムズ・グリック著/楡井浩一訳
対象書籍ISBN:978-4-10-506411-2

 普段何気なく使っているが、考え出すと奥が深い言葉はたくさんある。これまで僕が研究してきた「渋滞」、そして「無駄」がまさにその例といえるが、本書のテーマである「情報」も、そうした言葉の一つである。全編を通じてあらゆる角度から情報について最大限のスケールで考察してあり、例えば離れた相手に情報をどう伝えるか、という前半の部分だけでも一級の歴史書としての価値がある。のろしによる伝達から始まって、電信、そして電話の発明と、こうした新技術の登場で社会が変わっていく様子や人々の高揚感がリアルに描かれていて、まるで当時の関係者に直接インタビューしたかのような生々しさを感じることができる。中でも電信で通信費を節約するために、送る文字数をなるべく減らす工夫については、当時の人々のいろいろな知恵が楽しめる。僕も子供の時に、友達しか分からない暗号のような短文を書いて遊んでいたのを思い出すが、情報を損なわずにどこまで文章を短縮できるか、というのは科学的にも大変興味深い問題だ。そしてこれについて考えていくと、そもそも情報とは何か、という問いに自然に向き合うことになる。あまりに短くし過ぎて文章に含まれる情報を落としてしまっては意味がない。したがって、その文章がもともと持っている情報の量を把握することが鍵になる。しかし、情報はモノのように実体のあるものではない。この捉えどころのないものをどうやって測ればいいのだろうか。
 この答えの一つを与えたのが情報理論の生みの親であるシャノンだ。彼は情報を測る単位として、ビットというものを開発し、世界を変えた。これは簡単にいえば、その情報を聞いたときの「驚きの程度」を表している。この考え方は初めて聞くと分かりにくいため、いつも僕は大学で講義する際に次のようなたとえ話をしている。昔テレビで「トリビアの泉」という番組があり、ある事例を紹介して、それに対して興味をそそられたパネラーは「へぇ」と鳴るボタンを何度も押していたのをご記憶だろうか。この「へぇ」の数は驚きが大きいほど多くなるが、実はこれこそ情報量のイメージを表している。もしも聞いたメッセージに情報としての価値がなければ、それを聞いて誰も「へぇ」とは思わない。
 こうして驚きを情報量として捉えるのは今では常識になっているが、当時はもちろん反発もあった。本書では、シャノンが情報理論を作り上げていくまでの逸話がいろいろと紹介されていて興味深いが、シャノンに限らず、ゲーデル、チューリングなど情報理論に関係してきた有名な科学者のあまり知られていない人間像も沢山盛り込まれている。この人間臭い部分の記述のおかげで、今日までに築き上げられた情報科学の大ピラミッドが身近に感じられ、その「体温」までもが本書から伝わってくる。
 情報を伝える上で最も重要なことは、それをいかに正しく伝えるか、ということであろう。メッセージに誤りが容易に入ってしまうというのは、数人で伝言ゲームをすれば誰でも実感できる。聞き間違いや勘違いなど、コミュニケーション中には様々な誤解が発生するのだ。この誤解というのもまた同様に奥が深い言葉で、実は僕が現在研究中のテーマでもある。誤解を完全に無くすことは極めて難しいが、言語には誤解を防ぐための工夫として、冗長性というものが備わっている。例えば英単語の中には発音に関係ない余計なアルファベットが入っていることが多いが、この存在のおかげで、例えば一部の文字が虫食いで欠けていても、意味がちゃんと伝わるのだ。冗長性は一見無駄に見えるが、結局いろいろ考えると無駄ではない、というところが興味深い。そしてこれは現代の電子通信技術にも生かされている。
 本書を読むと、実は情報こそが我々を操っている実体で、我々の肉体は情報を運ぶ船の一つに過ぎないのではないか、という考えに襲われるかもしれない。こうした考えは、本書でも紹介されているドーキンスの『利己的な遺伝子』という本で有名になったが、我々は情報を生み出している一方で、確かに情報に振り回されている。例えば毎日大量に来る電子メールの奴隷になっている人も多いのではないだろうか。情報過多の時代をどう生きていけばよいのか、この悩みは多くの人が抱えているが、その答えを見つけて情報をうまくコントロールできなければ、人間と情報の主従が本当に逆転してしまう日が来るかもしれない。

 (にしなり・かつひろ 東大教授、渋滞学者)

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