書評
2013年3月号掲載
「私」が「私」であるために
――神田茜『ふたり』
対象書籍名:『ふたり』
対象著者:神田茜
対象書籍ISBN:978-4-10-328982-1
たとえば。何かしらの意見を求められたり、判断を迫られたとき「個人的には○○だけど、ここは××と言っておくべきか」などと悩んだことはないだろうか。本音と建前、公と私、理想と現実、欲望と理性。内なる天使の声と悪魔の声に翻弄され、迷った挙句「ザ・無難」な結論を口にしてしまったときのあの虚しさたるや、何度経験しても軽く落ち込んでしまう。
にもかかわらず、はっきり自分の考えを口にするのは怖いのだ。そう言い切るだけの根拠がない。自信がない。けれど、年齢を重ねるにつれ、毅然とした態度を求められる場面は否応なく増えていく。社会人として、上司として、夫として妻として、親として、立場に相応しい立ち居振る舞いをしなければならないと気持ちは焦る。なあなあ、まあまあ、曖昧さを美徳とする国に生まれたはずなのに、これはいったいどうしたものか。えいやっとスイッチを切り替え、体裁を整えた「○○として」過ごす時間が増えれば増えるほど、素の自分=「私」と乖離していくような不安を感じている人は、今、とても多いのではないだろうか。
本書の主人公たちもまた、そうした葛藤の只中にいる。そのひとり、小林千絵は十八歳。北海道の高校を卒業し、東京の服飾専門学校に通う千絵は、何事にも自信が持てず周囲の顔色を窺うように日々を過ごしている。福祉施設で二年過ごし、七歳で養父母に引き取られた彼女には五歳までの記憶がない。自分が人並み外れて臆病な性格なのは、その封印された過去にも原因があるのではないかと案じてもいた。一方、物語の幕開けの語り手として登場する「モス」は、千絵とは対照的な人物だ。個性的で臆することなく素直に感情を表現し、芸術的才能に恵まれているという自負もある。物語はまず、同じ学校に通い、同じ寮に暮らし、同じ経験を重ねながらも、まったく異なる世界で生きているかのようなふたりの日常が綴られていく。
ほどなく、千絵には持病があり週に一度クリニックへ通っていることが明かされるのだが、担当医である由加利もまた自分に自信が持てずにいた。頻繁にネイルサロンやエステに通い、毎朝自宅でヘアメイクに一時間かけ、完璧に自分を装って「私」から「医師」になる。ストレスのかかる状況を「私」から切り離し、仮面を被ることで自分を保とうとしていたのだ。
こうでありたい、こうであらねばならないと常に理想の姿は頭にあるのに、そうはできず足掻き続ける千絵。そんな千絵に自分と似た部分を感じ、真摯に治療にあたろうと努める由加利。モスを含めた三人の視点から描かれる物語は、千絵とモスの状況の変化を追いつつ、三者三様の心の奥深くに分け入り、繰り返し読者に問いかけていく。
「私」とは何なのか、と。
二〇一〇年、第六回新潮エンターテインメント大賞を受賞した『女子芸人』は、口下手という弱点克服のために漫談家に弟子入りした主人公が、芸の道と女の幸せの間で迷走し、幾つもの失敗を繰り返しながらも自らの人生を切り拓いていく笑いと涙の物語だった。女性講談師でもある作者ならではの達者な語り口も実に印象的で、だからつい、個人的には、受賞以来初の長編作である本書もまた、同じような傾向の作品を期待していたのだが、意外にも逃げ道なしの重いテーマにずばりと斬り込んできた。
もちろん、千絵とモスの服飾学校の寮生活や、退学の経緯、転がり込んだ訪問販売のみを販路にする自然化粧品会社の胡散臭さなど、独特のユーモアも随所にちりばめられている。それぞれが背負ってきた過去の傷。目を逸らそうとしている現実。「私」が「私」であることを肯定できるだけの「自信」が欲しい。愛したい、愛されたい。乞うように願い続ける日々を描くなかで、読者にふっと息を抜かせるタイミングは絶妙だ。
「だいじょうぶ」。物語のラストで届けられた声が、ゆっくりと広がっていく。何度も立ち止まり、それでも成長していく姿に胸が熱くなる。そしてつくづく思うのだ。まったく別の顔のように見えたこれもまた、神田茜なのだ、と。
(ふじた・かをり 書評家)