書評
2013年3月号掲載
「病」の記録としての文学史
――岩波明『精神科医が読み解く 名作の中の病』
対象書籍名:『精神科医が読み解く 名作の中の病』
対象著者:岩波明
対象書籍ISBN:978-4-10-470105-6
実に刺激的な本である。
題名の通り、本書は精神科医である著者が本格的な文学作品から娯楽的な小説まで、あるいは評価の定まった古典的な作品から話題になったばかりの現代文学まで、さらには近代日本文学から世界文学までを逍遥し、六十三におよぶ作家の作品について精神的な「病」を切り口に縦横無尽に語っている。まずそのことで異色のブックガイドになっており、読んだことのある作品ならそんな読み方があったのかと驚かされるし、読んだことのない作品は読んでみたいと思わせる。つまり読んでいるともっと本を読みたくなる本である。
たとえば先ごろ亡くなったばかりの「第三の新人」の作家、安岡章太郎が一九五九年に発表した代表作である『海辺(かいへん)の光景』は、江藤淳の長篇評論『成熟と喪失』などによって敗戦後の日本の混乱と戦前からつづく前近代的な日本社会の崩壊が刻印された、私小説的な作品として読まれてきた。しかし著者はその作品の、適切な介護施設のなかった時代に認知症によって尊厳を奪われた老人を描いている、という側面に注目する。またギャンブル依存だったことが知られている、十九世紀ロシアの文豪ドストエフスキーが一八六六年に発表した作品『賭博者』で描いた、賭博による負債で刑務所にまで入ることになる主人公「アレクセイ」は、現在なら「病的賭博」という診断が下されるだろうと指摘する。そうして「病」という光を当てることで、様々な文学作品の意外な面が照らし出され、ひいては文学史自体がまるで別のものに見えてくることになる。
なぜならその「病」が作品で描かれる素材に過ぎなければどうということはないが、ドストエフスキーの作品で描かれる「病的賭博」がおそらくドストエフスキー自身のものでもあったように、しばしば名作に現われる精神的な「病」は作者自身のものでもあるからだ。だから近代日本文学の作家で言えば、短篇「悪魔」でパニック発作の症状を描いている谷崎潤一郎は不安神経症だったし、美しい女性に執着するストーカー的な主人公を『みずうみ』で登場させた川端康成は女性の身体にフェティシズム的な興味を抱いていた。何度も心中事件をくり返してそのことを作品でも描いた太宰治はうつ病が疑われるし、怪異な世界に拘った泉鏡花の感受性はその不潔恐怖の症状と結びついている可能性がある。世界文学の作家でも、J・D・サリンジャー、フィリップ・K・ディック、ヘルマン・ヘッセ、テネシー・ウィリアムズ、リチャード・ブローティガンなどは、その作品に作者自身の「病」を連想させるものが少なくない。
本書で取り上げられた作家もすべてではないが、すぐれた文学作品の書き手の多くが「病」を抱えている。だとすれば文学とは社会にとって「病」そのものであり、文学史とはその「病」の記録ではないか。
そんなことを考えさせるのは、著者もまた「はじめに」で書いているように、なぜ文学作品で描かれるかなりの数の主人公が精神疾患を患い、しかも広く読者に受け入れられているのかという問いを抱えているからである。そのような視点がきわめて重要であることは、夏目漱石の『坊っちゃん』を取り上げた末尾の章からわかる。漱石がイギリス留学によって神経衰弱に罹ったことはよく知られているが、松山を舞台にした牧歌的な作品と言える『坊っちゃん』を読んで、その「病」を連想する人は少ないだろう。しかし漱石を「精神病性うつ病」と診断する著者は、いくつかの場面からその症状の反映をさりげなく取りだして見せる。十八世紀フランスの文学者であるルソーが書いた『告白』が、十九世紀末にフロイトが精神分析学を誕生させて初めてよく理解されたという話を思い出したが、あるいは「病」の記録である世界文学史は、精神医学による「病」についての理解が進んでさらによく読解される日を待ちつづけているのかもしれない。
(たなか・かずお 文芸評論家)