書評・エッセイ

2013年3月号掲載

明治の映画人・城戸四郎の闘い

――升本喜年『小津も絹代も寅さんも 城戸四郎のキネマの天地』

迫本淳一

対象書籍名:『小津も絹代も寅さんも 城戸四郎のキネマの天地』
対象著者:升本喜年
対象書籍ISBN:978-4-10-333321-0

 祖父の城戸四郎が昭和五二年に亡くなったとき、私は大学生でした。たいへん悲しかったことを覚えています。子供の頃、祖父の家のすぐそばに住んでいたのですが、祖父は必ず毎晩、娘(私の母)や、私たち孫の顔を見にわが家に寄ってくれました。玄関の呼鈴を三回鳴らすのが、合図なんです。あの音を聞くのが、毎晩、楽しみでした。まさか後年、そんな祖父の仕事を私が受け継ぐことになるとは、あの頃は想像もしませんでしたが……。
 城戸四郎といっても、すぐにピンと来ない方も多いと思います。明治二七年に生まれ、東大法学部卒業後、銀行勤務を経て、現在の松竹に入社。プロデューサーとして多くの名作映画を手がけました。日本初の本格的トーキー映画『マダムと女房』(昭和六年、五所平之助監督)を生み出したほか、田中絹代主演の『愛染かつら』(昭和一三年、野村浩将監督)は「空前絶後」と称されるほどの大ヒットとなり、歌謡映画ブームに先鞭をつけました。これも大ヒットとなった『君の名は』三部作(昭和二八~二九年、大庭秀雄監督)は人気ラジオドラマの映画化です。どれも、いまでいうメディア・ミックスの先駆けともいえそうです。
 さらに松竹蒲田撮影所長として、旧来のスター中心主義から脱し、小津安二郎や五所平之助、島津保次郎といった監督中心主義を導入しました。これによって、地味だった小津作品なども脚光を浴びるようになります。映画『キネマの天地』(昭和六一年、山田洋次監督)で、蒲田撮影所長だった頃の祖父を、松本幸四郎さんが演じてくださいました。幸四郎さんにお会いしたとき、「私の祖父さんですね」と冗談をいって笑いあったことがありました。後年は経営に徹し、社長、会長までつとめています。
 祖父は、映画製作者として、ものづくりの原点にたいへんこだわりました。「映画はヒューマニズムが基本だ。絶望を描いていても、最後にはヒューマンな感動に広がらなければならない」が持論でした。寅さんシリーズがその典型です。
 ただ、その感覚が強すぎたために、自分の好み以外は受け入れようとしない頑固な面もありました。たとえば、過激な政治ディスカッション映画として話題になった、大島渚監督の『日本の夜と霧』(昭和三五年)を公開四日で上映中止にし、それがきっかけで大島監督は松竹を退社します。これなど、祖父の性格がはっきり出た事件でした。そういえば、高校生の頃、一緒に会社へついていったら、それまでニコニコしていた祖父の表情が、会社に入るなり厳しく変化したのをいまでも覚えています。ちゃんと周囲の意見も聞く一方で、へりくだるのも嫌だという、「私」よりは「公」の感覚を重んじる「明治人」だったのだと思います。
 そんな祖父の生涯が、このたび本格的な評伝になりました。筆者の升本喜年さんは、祖父のもとで、松竹大船撮影所プロデューサーや、松竹シナリオ研究所所長、松竹映像取締役などを歴任された大先輩です。さっそく拝読させていただきましたが、あまりに細かく調べてあるので、驚いてしまいました。身内としては、少々面映いところもある一方、この本は、祖父の生涯を描いていながら、日本映画史の記録としても、とても貴重な内容だと思いました。
 中に、こんな箇所があります。まだ松竹が歌舞伎中心だった大正時代、名優・五世中村歌右衛門丈が、映画製作を始めるという松竹本社に来て、こう抗議したそうです。
「活動写真などという薄汚いものに手を出すのは、おやめになった方がいい。大松竹の名に瑕がつく」
 日本の映画界は、ここから産声をあげ、祖父は、これらの声と闘いながら映画を作り続けてきたのだということが、よくわかりました。
 私は、映画で大切なのは、「人間の善い面、悪い面も含めて、きちんと人間を描く」、しかし「トータルとして、人間を善意の眼で見る」、「全てのお客様に向けての作品を作るが、どちらかといえば、弱い立場の方々にとっての応援歌となるものを作る」ということだと思っています。本書を読んで、それは決して間違っていなかったし、これからも大切にしなければならないと、新たな思いを抱いているところです。

 (さこもと・じゅんいち 松竹株式会社代表取締役社長)

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