書評・エッセイ

2013年3月号掲載

桑田真澄の「パワーポイント」

――桑田真澄・平田竹男『新・野球を学問する』(新潮文庫)

平田竹男

対象書籍名:『新・野球を学問する』(新潮文庫)
対象著者:桑田真澄・平田竹男著
対象書籍ISBN:978-4-10-136891-7

 2009年4月、前年に現役生活を引退した桑田真澄は、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に入学した。大きな実績をのこしたプロ野球選手が、40歳を越えて学問の世界に挑戦するこの転身は、当時から大きな注目を集めていた。
 と同時に、早稲田大学と桑田真澄とのそれまでの関係を背負うこの出来事は、指導教官となった私にとっても大きな挑戦となった。大学院の1年間、私はいわば鬼になり、次々と厳しいハードルを課した。そして、彼はそれらをまっすぐに受け止め、課題を自らのものにしていった。その結果、桑田の論文「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」は、修士課程社会人コースの最優秀論文賞を受け、卒業式の総代にも選ばれた。
 桑田にとって、研究期間中こうした学問的成果を残せたのと同じくらい大切だったのは、純粋に興味の赴くままに自分の学問を追求する時間をもてたことではなかったかと思う。少年の頃から日本中の注目を浴び、常に他人の期待を背負わされていた彼が、初めて自分の夢のためだけに生きる時間をもてたのだから。
 大学院生時代の彼を思い返すと、非常に真摯で、かつ謙虚で心優しい人柄が窺えるエピソードが次々に浮かぶ。例えば、実際には大学院生の誰もが使うエレベーターの脇にある、「教職員以外はエレベーターを使わないように」と書かれた小さな貼り紙を目にし、入学当初から私の研究室のある研究棟の9階(!)まで、階段を使い続けたこと。長時間の授業に座り続けることすら大変な彼が、教室の最前列を授業の指定席にし、教壇のホワイトボードを見ては手元のノートに書き記す。そういった視線の往復で首を痛め、対策に悩んでいたこと。仲間のゼミ生たちと生まれて初めて早稲田のラーメン屋に入ったとき、レンゲをラーメン鉢のどこにおいていいのかわからないと困惑していた姿もまた微笑ましい光景だ。
 パソコンについての思い出も多い。平田ゼミでは、研究発表も課題提出もすべてパソコンで行う。とくに必須なのが、よく知られるプレゼンテーションソフト、パワーポイント(Microsoft® PowerPoint® 通称パワポ)だ。しかし、その使い方を身につけるのは、それまでほとんどパソコンに触れたことの無かった桑田には、たいへんな苦労だったはずだ。それでも、ゼミの仲間たちの協力も受け、彼は少しずつ、しかし着実に習熟していった。
 卒業から3年が経ち、いま桑田は私の授業のゲストスピーカーに呼ぶと、パワポで作った自作のスライド資料入りのパソコンを携えて、自分で操作する。スクリーンに大写しにされたスライドは、論点が常にわかりやすく整理され、グラフや写真も随所に盛り込まれ、聴衆の理解を助ける。表現力もパソコンスキルもさらに飛躍的に向上している。それは、彼が卒業後も学問の努力を怠っていない明瞭な証拠でもある。元プロ選手が一方的に自身の体験談を披瀝する「講演会」も数多いなか、桑田真澄ほどの選手が、若い学生に向かって、パワポを駆使してともに野球の未来を考えようと語りかけるとき、その説得力は絶大だ。
 今回、単行本『野球を学問する』を文庫化するにあたり、私たちは再び長時間の対話を行なった。話題は日本球界の課題から、体罰問題、WBC、東大野球部コーチ就任、そして世界との競争に勝ち抜くための国内のスポーツビジネスの取り組み全体へと多岐にわたり、気づけば分量は単行本時の倍にふくらんだ。読者はページの至るところに、桑田真澄が自らの力でつかみ、深めた「学問」の姿を目にされることと思う。詳しくはぜひ本書をお読みいただきたいが、特に、桑田が、肘の手術後に復活に賭ける松坂大輔投手をリハビリ先のフロリダに訪れ、自身の怪我の経験を踏まえて、松坂大輔がいかに復活すべきかを彼なりの考え方で伝えたことは秀逸だ。ここでも彼は投球術の解析を含め自作のパワポ資料を使った。そこに、同じエースナンバー18を背負い、同じ肘の怪我に苦しんだ、同じメジャーリーガーだった桑田の、後輩松坂投手への愛情といたわりが溢れていないだろうか。私は彼の豊かな人間力と学問的成長を見た。そして、それこそが次代の球界が最も必要とするものだ。

 (ひらた・たけお 早稲田大学大学院教授)

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