書評・エッセイ

2013年4月号掲載

「あの人たちの話」と割り切って読むことができない

――ネイサン・イングランダー『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』(新潮クレスト・ブックス)

大竹昭子

対象書籍名:『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ネイサン・イングランダー著/小竹由美子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590101-1

 ニューヨークにいたころ、ユダヤ教正統派をよく見かけた。一年中黒い帽子に黒のスーツ、青白い顔に長いひげをたくわえ、房のような巻き毛を垂らしている。そんな姿の男たちが、中古のスクールバスでマンハッタンのダイヤモンド街に通勤してくるのは不気味な光景で、表題作の冒頭に正統派の夫婦が出てきたとき顔をしかめたのだったが、全篇を読み終えてその感情は完全に覆された。大変な作品集である。
 どの短編もユダヤ人の通過してきた体験がベースになっている。二組の夫婦が過ごす数時間を描いた前掲の表題作は、著者自身にもっとも近いだろう。一方はイスラエル在住の正統派で、もう一方はマイアミに住むふつうのユダヤ人夫婦。妻同士がユダヤ学校のときの親友で、帰国を機に自宅に招く。
 戒律や習慣、価値観の差など、彼らの生活について多くのことを教えられたが、驚くのはその先だ。ユダヤ人について語りながらそのむこう側に突き抜けていて、「あの人たちの話」と割り切って読むことができない。
 対象とのこのようなスタンスは、ネイサン・イングランダーの経歴と無関係ではないだろう。敬虔なユダヤ教徒の家庭に育ち、高校までユダヤ学校に通うが、大学時代にそれらに疑問をもち、ユダヤ教から離れる。
 非宗教的なユダヤ系アメリカ人と異なり、厳しい戒律のもとで昔ながらの教育を受けたことが、同世代の若者にはない歴史軸を育んだことはまちがいない。調べ上げた事実を構成して書くのとはちがう、自分のいまを問わなければ先に進めないという切実さが、ユーモアと皮肉と哀しみのまじりあった不思議な味わいの文章から伝わって来る。
 どの作品でもひとりの人間のとったアクションが扱われる。「姉妹の丘」では同じ時期にイスラエルに入植し、家庭の幸福を手にしたイェフーディットと、その逆にすべての家族を失ったリーナというふたりの女性が主人公だ。かつてふたりの間に交わされた契約を理由に、イェフーディットの娘を取り上げようとするリーナ。ラビの法廷の前で彼女が述べ立てる理屈は、契約とは何かを鋭く突いているが、娘の気持ちは少しも考慮されていない。
「キャンプ・サンダウン」では、高齢者のサマーキャンプの参加者のひとりが強制収容所の衛兵だった男に似ているという理由で高齢のユダヤ人グループにより溺死させられ、「若い寡婦たちには果物をただで」では、収容所で遺体の山のなかに隠れて生き延びた人物が、その後の人生でおこなった二つの殺人が問われる。
 それぞれの人物に選択と行動がある。理解しがたくとも必然がある。人の義とは何かという問題がここで浮上してくる。人には法律を遵守する公共的な一面があるが、同時にそれぞれの事情を生きる一個人でもあり、とくに近しい人々とのあいだでは法律や神との契約よりも信頼関係を重んじる。「正当防衛」や「権利の主張」などの言葉が遠く聞こえるのはそのためだ。ならばその信頼が損なわれたとき、人はどのような行動にでるのか。
「若い寡婦たちには……」は、自らも収容所の生き残りである青果店の主人が、殺人を犯した男の話を息子に語り聞かせるという設定だが、父はこう説く。人生にはつねに背景がある、だがその選べない状況下で人が何をして、何をしないかは簡単にわかることではないのだと。
 そうした生々しい瞬間が、問いの深さと絡み合い、読む者を洞窟の奥へと連れて行く。表題作では登場人物が決定的なアクションを起こす場面はない代りに、もしいまホロコーストが起きたなら、この人は匿ってくれるだろうかと想像するゲームがおこなわれる。互いに問いを向けるうちに、みな寡黙になっていく……。ユーモアやウィットに満ち、青春の甘酸っぱい思い出もちりばめられ、ポップで軽やかな印象の作品だが、彼らの直面する「いま」が私たちの「いま」と響き合い、思わず息を呑む。反対に唯一、ユダヤ性から離れた「読者」には、洞窟の先に希望を灯そうとする意志が見てとれる。著者の思想と精神を象徴したこの作品には、心が弱くなったとき、何度ももどってくるだろう。

 (おおたけ・あきこ 文筆業)

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