書評・エッセイ

2013年4月号掲載

“渡し場”で展開する濃厚な人間ドラマ

――藤原緋沙子『百年桜』

菊池仁

対象書籍名:『百年桜』
対象著者:藤原緋沙子
対象書籍ISBN:978-4-10-139162-5

 本書は“文庫書き下ろし時代小説の女王”と命名された作者の『花鳥』『坂ものがたり』(文庫化にあたり『月凍てる』に改題)に続く、三冊目の単行本である。
 これが実にうまい。“隅田川の渡し場”というモチーフはもちろんなのだが、人物造形、物語の内容、構成、展開など、いずれをとってもうまい。鮮やかなのだ。そのひとことに尽きる。
 作者は二〇〇二年に「隅田川御用帳シリーズ」の第一巻『雁の宿』でデビュー。かなり遅いデビューで、作家歴も昨年で十年という節目を迎えたばかりである。これは文庫書き下ろし分野で健筆をふるっている作家の多くがそうであるように、脚本家出身という経歴のためである。ただ一点、特筆すべきことがある。『雁の宿』を書く前年に社会人学生として学んでいた立命館大学文学部史学科を卒業している点である。作品の舞台である江戸時代を見る眼の確かさは、「親子鷹」や「鞍馬天狗」等の脚本で培ったものをベースに、集中的に学んだものが成果となってあらわれたのであろう。
 それは作品履歴を追っていくと明らかである。例えば、「隅田川御用帳」の二年後に「橋廻り同心・平七郎控シリーズ」をスタートさせている。川から橋を題材とする作者の着眼点の鋭さに脱帽した。“橋”には人生の縮図がある。江戸の人々にとって、“橋”は生活に密着した存在であり、離合集散の場であった。“橋”を渡ろうか渡るまいか思案する。日本人ほど“橋”に人生の一コマをシンボライズさせる民族もいない。古代から“橋”は単なる通路ではなく、聖なる境界でもあった。川も同様の意味を持っている。そういったことも左右しているのであろう。“橋・川”にはストップモーションをかけられた人生がある。
 さらに前作『坂ものがたり』では、“坂”をモチーフにし、それを四季の佇まいというフレームの中で描く手法を開拓した。作者は文庫書き下ろしと単行本の違いをただ単なる判型の違いにとどめず、ひとつのモチーフをテコとして、人物像の彫りをより深く、ドラマの密度をより濃いものにしていく手法に進展させている。
 まさに本書はそれを極めた短編集といっていい。前述したようにモチーフは“渡し場”である。“川”“橋”“坂”、そして“渡し場”とくれば作者の狙いは明瞭だ。これらはいずれも江戸の町の特徴を有している重要な要素で、江戸情緒を醸し出す。市井人情ものを書くならば恰好の舞台装置となる。言葉を変えれば読者が感情移入しやすい回路として作用する。なぜなら、登場人物をどれだけ深く描き切れるかということは、最高の情景を用意し、どれだけ深く主人公の心象風景と同一化させえるかにかかっているからだ。その点で“渡し場”は濃密な人間ドラマを目指す作者にとって、イメージをふくらましていくには充分な素材といえる。
 徳川家康が江戸へ移封されると、江戸の町は大きく発展したが、防衛上の関係で架橋は制限され、そのため隅田川を渡るために多くの渡し場が誕生した。
 本書は「百年桜」「葭切」「山の宿」「初雪」「海霧」の五つの短編で構成されている。それぞれに“竹町の渡し”“橋場町の渡し”“山の宿の渡し”“富士見の渡し”“本湊町の渡し”の五つの“渡し場”が、物語のカギを握る形で登場する。“渡し場”は川で隔てられているだけに、前述した“橋”のもつ意味以上に人生の転機や岐路にたった主人公の心情を映し出す装置として働く。作者はその心情にふさわしい“渡し場”を選び、さらにある工夫を凝らすことで、ラストの渡し場の場面で情景が心象風景となって立ち上がってくる。
 市井人情ものの筋を紹介するのは野暮というものなので、読み所を列挙する。作者の工夫が主人公の人物像をどれだけ描き切れているのか。
「百年桜」では百年桜と小鹿の鳴き声に留意して欲しい。「葭切」では冒頭とラストに葭切の鳴き声がヒロインの心情にかぶさってくる。「山の宿」は隅田川の桜紅葉がヒロインの決意を誘う形で冒頭に登場する。「初雪」の舞台となった“富士見の渡し”は舟上から富士山が良く見渡せたところからついたと言われている。作者はそこから哀切な母と子の物語を紡ぎ出した。「海霧」は石川島の人足寄場へつながる本湊町の舟着き場が舞台となっている。ラストに登場する“海霧”が主人公の内面を浮き彫りにする場面は見事といっていい。
 本書は独特の手法と円熟味を増した筆力で磨きぬかれた本格的市井人情ものを満喫できる傑作である。

 (きくち・めぐみ 文芸評論家)

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