書評

2013年4月号掲載

大人は言えない名言

――ゴウヒデキ・藤木フラン編『それ、どこで覚えたの?』(新潮文庫)

ゴウヒデキ

対象書籍名:『それ、どこで覚えたの?』(新潮文庫)
対象著者:ゴウヒデキ・藤木フラン編
対象書籍ISBN:978-4-10-137061-3

「こどもって、時々すごい真実を言うよね?」
 そんな言葉を耳にする度、私は「それは、こどもをナメているのではないか?」と思っていました。つまり「こどもが考えることなんて、どうせ大したことないだろう……」と大人が油断しているから、その隙を突いた発言に「すごい真実を言うよね?」と感じるのだと。
 ところが、今回『それ、どこで覚えたの?』のために集めた「こどもの名言ツイート」を見渡してみると、どうやら事情は違うようです。
○小学4年の息子が、「ぼくね、本当の無敵っていうのは敵がいないほど強いんじゃなくて、誰とでも仲良くなって、敵なんかいなくなることだと思うんだ」と話してくれた。子供にはいろんなことに気づかされる。
 娘(小1)に「人間の体は何で出来てると思う?」と聞かれ、「肉と血と骨じゃないの?」と言ったら、「あとひとつあるよ」と言われて、「あとひとつはなあに?」と聞いたら、「愛だよ」と言われ、頭を何かでブン殴られた思いなので寝ます。
 こんな名言がたくさんあるのです。こちらは名言を探しているので油断どころか身構えた状態。それでも、こどもの言葉は鋭く突き刺さってきます。では何故、こどもに名言が多いのでしょうか!? それは、こども達は大人が言えない事を言える……という強みを持っているからだと思います。
 我々は何となく「知識が広がり経験が増えると、言葉が鋭くなる」というイメージを抱いていますが、本当は逆で「知識と経験が増えると、言葉が鈍くなる」のが実態です。
 今や政治家や芸能人でない人でも、見ず知らずの人に叩かれる時代。本当は「AはBである!」というメッセージを発信したいのに、「いや、違う考えの人もいるだろうな……」「断定すると揚げ足を取られるかも……」と知識や経験が自己防衛するように働きかけ、結果、「AはBであるんじゃないかなんて考えちゃった。」とヌルッとしたつかみ所のない発言に終わってしまう……。
 誰の顔色を窺っていいのか? 窺うにも、その顔すら見えない人達を警戒するうちに、いつしか発言ばかりでなく、考え方も「叩かれないよう」に萎縮してしまっているのかもしれません。
 では、伸び伸びと自分の考えを述べるには、どうすればいいのでしょうか? 私は、それに必要なのは「絶対に肯定してくれるであろう聞き手」だと思います。好ましい反応が返ってくるはず……という先の「肯定」が担保となって、ようやく名言が口から飛び出していくのではないでしょうか。聞き手(こどもの場合は、特に親)に対する安心感が、思ったことを自由に口にできるという好ましい環境を作っているのです。
 この本に収録されているような未就学児童〜小学校低学年のこどもは、知っている世界がまだ狭く、また他人にどう思われるだろう……と世間への気兼ねもなく萎縮せずに、飾り立てることも自己防衛することもなく、鋭い発想を鋭いままに聞き手に届けようとしてくれます。
 息子がアスファルトに貼られた絆創膏を見て「マグマがちょっと出ちゃったのかな?」って言ってた。
 去年、阿修羅像を見て「あしゅらって、お口は三つあるけど、おしりの穴はひとつだから、たいへんだね」という名言を残した長女(8)は、先日、十一面観音像を見て絶句していた。
 こういった発言は、「地表の下にはマグマがある」「口から入った食べ物は体内を通って消化される」といった自分が持っている知識を使ってなんとか世界を理解しようとしている状態なのかもしれません。これが大人だと色んな知識を総動員してしまいますが、こどもの知識はまだ限られています。だからこそ、足りない知識を補う想像力が働くのです。
 こどもの発言の面白さに心くすぐられる度に、その発言をあたたかく受け止めている家庭を思い浮かべて、ほほえましい気持ちになります。
 と同時に、「(大人となった)自分は何を気にしていたんだろう?」と警戒し、萎縮していた自分を見つめ直します。「自分もこどもの時は、こう思った!」「自分のこどもの時はどうだったっけ?」と振り返りながら読むと、本来の伸び伸びとした自分が見つかる……そんな本かもしれません。

 (ごう・ひでき 放送作家)

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