書評

2013年5月号掲載

国家と人間、繁栄と文化を問う物語

――乙川優三郎『脊梁(せきりょう)山脈』

三浦しをん

対象書籍名:『脊梁山脈』
対象著者:乙川優三郎
対象書籍ISBN:978-4-10-439305-3

 敗戦により上海から復員してきた矢田部信幸(やたべのぶゆき)は、故郷へ向かう列車のなかで、同じく復員兵の小椋康造(おぐらこうぞう)と親しくなる。世話になった小椋の行方を尋ね、信幸の旅がはじまった。
 というのが、本書のおおざっぱな筋だろう。しかしこの小説は、そんな「あらすじ」では収まりきらぬ豊潤と奥行きを秘めている。
 本書に流れる水脈のひとつは、敗戦からの復興期にあたる十五年を、信幸の人生に重ねあわせた物語だ。彼は戦争で青春時代をめちゃくちゃにされ、やっと訪れた「平和」にも居心地の悪さを感じている。国家に翻弄され、戦地で死の淵を垣間見た信幸は、焼け跡のなかでなんとか自分自身を、「生きる」実感を、見いだそうとあがく。魅力的で個性的な女性たちとの出会い、老いてゆく母親との暮らしを描くこの水脈は、「戦後」を舞台にした切実な恋愛小説であり家族小説でもある。ちなみに私は恋愛小説を読むと、「なんでこんな男がモテるんだよ(←ひがみ)」と思うクチなのだが、本書に関してはちがった。女性への偏見がなく公正な信幸は、モテて当然だ! 私も焼け跡で信幸と出会いたかった……。
 もうひとつの水脈は、木地師(きじし)をめぐる冒険小説であり、ときとして探偵小説のような趣も見せる。木地師とは、轆轤(ろくろ)を使って、木目を生かした器やこけしを作る職人のことだ。いい木を求めて、かつては山から山へと旅をしていた人々だが、明治時代の政策によって定住を余儀なくされ、木地師独特の習俗や木工の技術は途絶えつつある。
 信幸は、行方知れずの小椋が木地師であることを突き止める。そこから、信州や東北の木地師を訪ねる信幸の旅がはじまる。失われた青春、奪われた生の実感を取り戻そうとするかのように、信幸は木地師の暮らしと仕事を調査し、記録していく。
 小椋はどうして、どこへ、姿を消したのか。やがて信幸は、千数百年にもわたる木地師の歴史の深奥に触れることになる。かつて朝鮮半島からやってきて、さまざまな文化や技術を伝え、日本列島における古代律令国家の成立にも深くかかわった「渡来人」たち。かれらの息吹は、木地師の手技と伝承のなかに、列島に生きる私たちのなかに、いまもなお根付き、息づいている。木地師の謎と足跡を解き明かす旅路はなんともスリリングで、読みながらわくわくしてならなかった。
 余談ながら、私の祖父母が住んでいた山奥の村は、木地師が拓いた村だとも伝えられている。また、林業の取材をしていると、各地の山を移動して仕事をする杣(そま)や木挽(こびき)の一団がいたということを、よく耳にする。近代国家は定住をよしとし、ときに国民を過剰に管理掌握しようとする傾向にあるが、そうした枠組みから自由であろうとする人々は、昭和三十年代までは確実に存在した。県境など無視し、深い山を行き来したひとの話を聞くたびに、人間は本来的に自由なのであり、旅をせずにはいられない生き物なのだと実感する。国や民族のちがいなど意にも介さず、「海上の道」だけでなく「山脈の道」も使って、人々は自由に交流し、新しい土地と文化に胸ときめかせてきたのではなかったか。
 信幸が旅の果てにたどりつく結論に、私は深く同意し、ロマンを感じた。うつくしく厳しい旅路を、そのさきで信幸が目にする尊い光景を、ぜひ味わっていただきたい。この、静かだが強さと激しさを秘めた小説は、国家と人間、繁栄と文化を問う物語だ。同時に、失われゆくものを追い求めつづけた男の再生の物語であり、自由で孤独な魂の麗(うるわ)しさに捧げられた歌であり、他者(異質な文化)と出会い理解しあう喜びに満ちた叙事詩だ。
 長い歴史を、ひとの哀しみと苦しみを、愛情と希望を、あらゆる事象と心情を湛え、生命を潤す澄んだ水脈は幾筋も流れつづける。それらすべての水脈が生まれいずる場所、脊梁山脈は風雪に耐える生き物の背骨のように、気高く連なる。そこに住む木地師の姿にも似て。
 信幸とともに山をさまよい、かれらの血の熱さ、脈動を感じた私は、感動という言葉ではたりない心の震えを覚えた。ああ、なんという小説だろう。すごすぎる。

 (みうら・しをん 作家)

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