書評

2013年5月号掲載

胸をざわつかせる不穏な空気

――絲山秋子『忘れられたワルツ』

豊崎由美

対象書籍名:『忘れられたワルツ』
対象著者:絲山秋子
対象書籍ISBN:978-4-10-466906-6

 村上春樹は阪神淡路大震災の後に出した短篇集『神の子どもたちはみな踊る』のエピグラフに〈「リーザ、きのうはいったい何があったんだろう?」「あったことがあったのよ」「それはひどい。それは残酷だ!」〉というドストエフスキー『悪霊』からの一節を掲げている。
「あったことがあったのよ」という言葉しか出てこないほどの怖ろしい出来事。「それはひどい。それは残酷だ!」なんて陳腐な言葉でしか応じられないほどの衝撃。天災という抗いようのない力によって失われた多くの命を前にして、一九九五年一月十七日、わたしたちは呆然としたのである。
 そして、二〇一一年三月十一日。地震と津波に加え、原発事故という人災まで起きた東日本大震災は、阪神淡路大震災以上の被害と喪心を日本人にもたらした。あの日を境に、世界のありようは変わってしまったのだし、わたしたちの精神もまた何らかの変容を余儀なくされたのだ。「それはひどい。それは残酷だ!」の先の境地がある。それを思い知ったのがあれからの二年間だったということを、絲山秋子の短篇集『忘れられたワルツ』は気づかせてくれるのである。
 県庁所在地から車で一時間余の町に住み、恋愛なんて雑用と言い切るシニカルな四十代独身女性の〈私〉(「恋愛雑用論」)。〈私なんかほんとに面の皮一枚だ〉〈身体にいい食べ物とか適度な運動とか美白とか、或いは大人のふるまいとか気遣いとか品のいいしゃべり方とか、なにもかもうすっぺらだ。中身がない。あさましい〉と思うバブル世代の井手(「強震モニタ走馬燈」)。小学生の頃の恩師の通夜に出るため、激しい雪の中、車を走らせる巽(「葬式とオーロラ」)。恋人から、ひとの気持ちに寄り添うってことができないおまえはアスペルガーだと言われてしまう〈わたし〉(「ニイタカヤマノボレ」)。取引先に向かうため、部下といつもの電車に乗ったらパラレルワールドに迷いこんでしまったサラリーマンの津田(「NR」)。母と姉の身に起きたことを受け入れようとしない大学生の風花(表題作)。女装趣味の老人、増田(「神と増田喜十郎」)。
 収録七作品のいずれも、あの大震災を直接扱っているわけではない。にもかかわらず、どの作品も、あの日以降の世間の空気のようなものを伝えて剣呑なのだ。
 面積の大半を占めるのが自衛隊の演習場である町に住む「恋愛雑用論」の〈私〉は、震災の後「災害派遣」の札を下げた車両が帰ってくるのを見るたびに涙を流し、あれ以来〈友達に違和感を覚えた。家族にも違和感を覚えた。テレビにも政治家にも違和感を覚えた。でもそのうち強い気持ちは薄まってできることだけをすればいいと思うようになった。それが正しくないことも勉強不足なこともわかっている。でもどこに、ひとがふつうに生きていくことについて正しく話せるひとがいるというのか〉と思う。「強震モニタ走馬燈」の主人公・井手の幼なじみの魚住は、離婚後、地震計の揺れを配信する強震モニタに見入り、また大きな地震が来るかもしれないと言われている今は〈毎日が震災前なんですよ〉〈もうふつうなんてなくなっちゃったんです〉と話す。「ニイタカヤマノボレ」に描かれているのは震災が二度三度と続いている昏い未来で、〈わたし〉は今よりもっと怖ろしいことが起きるという予感におののいている。精神的なものから来る痒みの発作に苦しむ表題作の風花は、〈痒いということはつらくて、滑稽で、孤独なことである。「痛みを分かち合う」なんて言うけれど、本当にそんなことが出来るのだろうか。少なくとも痒みは分かち合えない〉と思う。
 原発の是非や瓦礫処理問題をめぐって感情的に対立する。国家の一大事によって生まれた愛国心が、領土問題や長年の不況のあおりで就職もままならないといった不満とあわさって、在日外国人排斥運動につながっていく。3・11以降に醸成された胸をざわつかせる不穏な空気を、絲山秋子はさまざまなタイプの市井の人の声を借り、深刻ぶることなく、時に笑いをともなわせながら描いているのだ。作品ごとに文体も読み心地も異なるので、読者を選ばない短篇集になっているのが美点だと得心しつつも、川端康成賞を受賞した短篇の名手が、その技よりも感情を優先させたかのように読める「ニイタカヤマノボレ」が個人的には最上。ラストシーンにおける語り手の叫びに、震撼必至の傑作なのである。

 (とよざき・ゆみ 書評家)

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