書評
2013年5月号掲載
耐え難い記憶とその後の長い時間
――タナダユキ『復讐』
対象書籍名:『復讐』
対象著者:タナダユキ
対象書籍ISBN:978-4-10-333831-4
柱の傷が嬉しい成長の記録を物語ることがある。しかし過去の記憶は時に耐えがたい痛みを与えもするのだ。タナダユキ『復讐』は、過去の刻印の残酷さを描く作品である。普通小説だが、ミステリーファンにもお薦めしたい内容だ。
物語は中学教師の中井舞子が北九州市戸畑(とばた)区にある学校に赴任する場面から始まる。作者は、舞子が住み慣れた東京を離れ、遠い街にやって来て最初に見たものをまず描き出す。それは潮の匂いのしない海、洞海(どうかい)湾の景色だったのである。始業式の日、舞子はこの地で見ることのできる海と同じ、暗い緑色の瞳を持つ少年に遭遇する。その手にハルジオンの花が握られていた理由を、後になって彼女は知ることになる。彼の名は橋本晃希(こうき)、舞子が受け持つクラスの生徒だった。
読み進めていくうちに中井舞子と橋本晃希の間に共通点があることがわかってくる。彼らは共に、犯罪事件の関係者になって人生を狂わされていた。しかも晃希は、その経験のために家族には言えない秘密まで抱えていたのである。傷を隠しながら生きる者にとって、自身の心をさらけ出すことは容易ではない。しかし舞い散った花びらが束の間ひとところに吹き寄せられることがある如く、心に翳りを持つ者だけが足を止めるような場所で二人はときおり言葉を交わすようになっていく。だが、この地の伝統的な祭りである戸畑祇園大山笠の夜、その日常にも大きな変化が訪れることになる。
舞子と晃希の視点が交互に置かれる形で叙述が進んでいく。ここに小説としての工夫があり、二人の過去に共通点があることが効いてくるのである。舞子の人生が描いてきた軌跡は、晃希がこれから歩んでいくであろうものだ。逆に晃希の中に、舞子の感じている哀しみと同質の感情を見出す読者もあるだろう。しかしそれは重なり合わない。自らの過去に怯える二人は、心を隠すための仮面をつけているからだ。他人と深く交わろうとしない二人は、自分にいちばん似た者のそばにいながら、本当に必要なことを口にせずに時間を費やしてしまう。不可避の結末に向けて動いていく物語を読みながら、私は人という存在の不恰好さを呪った。人間という入れ物は無用に頑丈にできていて、外から届く大事なものまで跳ね返してしまう。その融通の利かなさが恨めしい。
あまり情報がないほうが楽しめる作品だと思うのでぼやかして書くが、少年犯罪の問題が背景では描かれている。未成年者が凶悪犯罪の当事者となった場合にこの国の司法制度がいびつな形でしか動いてこなかったことは周知の通りである。その中に巻きこまれたひとびとの人生が、複数の登場人物に仮託する形で描かれている。ひとつの事件によって傷つけられるのは被害者だけではない。その周囲にも、憎悪や悔恨といった感情によって心を破壊されてしまった犠牲者が存在するのである。当事者が未成年者であるという条件が、そうした連鎖反応をさらに辛いものにする。人間は記憶に縛られながら生きている。耐え難い記憶を心に刻まれた人間は、どうすればその後の長い時間を生きていけるのか。
サスペンス小説として見た場合は若干物足りない部分もある。ある登場人物の計画が都合よく成就しすぎるのだ。また、中井舞子という登場人物の魅力を後半は活かしきれていないのも残念である。しかし、要素を極端に絞ったために物語が鋭いものになっていることも確かだ。何よりも視覚的な印象が鮮やかである。普段は眠ったように静かな街が祇園大山笠の晩にだけ躍動の瞬間を迎える。静と動のコントラストが際立っており、物語のクライマックスとして申し分ない。
作者のタナダユキはドキュメント映画「タカダワタル的」や「ふがいない僕は空を見た」などの作品の監督として知られる人物である。タナダは脚本家でもあり、すでに著書もあるが、今回は書き下ろしの形式で正面から小説の世界に取り組んだ。若い才能の挑戦をまずは心から祝福したい。
(すぎえ・まつこい 書評家)