書評

2013年5月号掲載

エルメスと虎屋

――川島蓉子『エスプリ思考 エルメス本社副社長、齋藤峰明が語る』

黒川光博

対象書籍名:『エスプリ思考 エルメス本社副社長、齋藤峰明が語る』
対象著者:川島蓉子
対象書籍ISBN:978-4-10-333891-8

 1998年のこと、齋藤さんがエルメス・ジャポンの社長になられたときに、雑誌のインタビューでライバルはと聞かれ、「虎屋さんでしょうか」と答えていらしたのです。
 これはどういうことだろう、と私から人を介してお声をかけました。虎屋がライバルという意味合いを、とにかくうかがってみたくなったのです。そうおっしゃるからには興味を持ってくださっているのだろうなと思いつつも、お会いするまではどんな方なのかまったく想像がつきませんでした。
 この本を読み進めるうちに齋藤さんの魅力がお分かりいただけると思うのですが、ご本人は聡明で穏やかなお人柄。お会いした瞬間にそれを感じました。彼のことを品のいい大学教授のようだと評する方がいましたが、私の第一印象は、「いい人に出会えたな」です。
 日本でエルメス・ジャポン社長を10年ほど勤められたあと、18歳のころから移り住まれていたフランスに戻り、エルメス本社で、外国人初の役員となられます。それだけ聞いたら、普通想像するのは、アメリカやフランスのビジネススクールを出たバリバリのビジネスマン、というものだと思います。ところが、しなやかで周りの人に安心感を与える齋藤さんは、前述した品のいい大学教授でなければ、“文化人”という印象です。おそらくエルメスのデュマ前社長も、そのような彼を見込んで役員にされたのでしょう。
 著者の川島さんも同じところにほれ込まれたのではないでしょうか。本の随所に齋藤さんへの敬愛が感じられ、いつしかそれは、エルメスに対する興味と追究に移っていきます。そして、お二人が出会ってから10年、取材開始から3年と仄聞する時間の経過とともに、川島さんは、エルメスの真髄は齋藤さんのように、周りの人や自分たちのつくるものを本気で愛し、その先にいらっしゃるお客様に常に思いを馳せているところにあるのだと発見されてゆくのです。エルメスの大切にしているものと齋藤さんの大切なものが一致しているのです。
 齋藤さんの講演や言葉を聴いていつも感じるのは、僭越ながら「私の考えていることと同じだな」ということです。物事の捉え方や視点が一致する。私が思っていることを語ってくださっている――そんな感覚さえあります。
 自分たちがつくる商品に対する見方もそうです。商品は、職人の心意気そのもの、そして商品はお客様との接点であるという感覚です。和菓子に対するわれわれの思いと同じものを、エルメスの製品に対する齋藤さんの言葉に感じるのです。
 この今という時代に生きる方々に喜んでいただけるか――そこがいちばんの共通項だと思います。齋藤さんも同じ思いだから、「ライバル」とおっしゃってくださったのかもしれません。この時代の最善は、次の時代の最善ではないかもしれない。伝統と歴史を保ちつつ、変えていくものもある。一方で、ものづくりに対する真摯さは変わることはない。いい鞄を作る、その思いは変えずに、いい鞄の形は変えるということです。
 齋藤さんやエルメスの職人さんがどれだけ精魂をこめてつくっていらっしゃるか。それは、こちらもものをつくっているからこそ、わかっているつもりです。
 たとえば、虎屋のつくり手は、つくった菓子を、お客様と同じ状況で食べています。漆の器にのせて楊枝を使い、お茶の時間の午後3時頃に食べてみる。すると、自分たちがよしと思ってつくったものが、硬すぎるとか大きすぎるとか、別の視点で見えてくる。
 そうした私たちの姿勢と通ずるものを、具体的に確認できるのがこの本でした。たとえば、「クーズュ セリエ=サドルステッチ」と呼ばれる独特の革製品の縫い方のことなどもその一例です。
 ほかにも、共鳴する齋藤さんの言葉がいくつもありました。「リーダーの言葉が積み重ねられていくことで、エルメスという企業の哲学は作られてきた」、「僕が考えるエルメスのマーケティングとは、強いて言葉にするなら、作り手の意志と使い手の意志を交流させること」、「豊かさとは量ではなく質であることが肝要。定量の中で質を追求する視点こそが大事」などのフレーズも、大いに納得のいくところです。皆さんもこの本の中の素晴らしい言葉の数々から、エルメスの神髄を感じ取っていただけるのではないでしょうか。

 (くろかわ・みつひろ ㈱虎屋社長)

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