書評・エッセイ

2013年5月号掲載

写真が文学と一体化する瞬間

――竹田武史 構成・写真/ヘルマン・ヘッセ 著 高橋健二 訳『シッダールタの旅』

姜尚中

対象書籍名:『シッダールタの旅』
対象著者:竹田武史 構成・写真/ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳
対象書籍ISBN:978-4-10-334031-7

 万物と人間のありとあらゆる営みをこれほどまで見事に映し出した写真があっただろうか。
 緑したたるマンゴーの木陰、巍峨たる峻厳な岩山、宇宙の根本を秘めたような原始林、霧に包まれる鬱蒼とした森、腐乱した死肉の転がる平原、生きとし生けるものを飲み込んで流れるガンジス川、卑猥と豊穣の彫刻群に覆われた寺院、聖なる川での火葬と沐浴、そして猥雑な日常の営み……。すべてが変化し、静止し、動きだし、変化し、そしてまた静止し……。その情景の一つ一つが、明と暗と、存在と無と、動と静と、生と死と、聖と俗と、流転と永遠とを映し出し、時間に身をゆだね、そして時間を超えているように見えるのである。
 ヘルマン・ヘッセの名作『シッダールタ』のビジュアル化をこんなふうにやってのけるとは、写真家、竹田武史はただ者ではない。ただ者ではないとは、野心家を指して言うのではない。いやむしろ、その逆だ。不惑の年に手が届きそうな大人が、これほどまでに無垢で純粋に、ひたむきにヘッセの世界にのめり込み、シッダールタの遍歴の旅を、あたかもシッダールタその人の目に映じたに違いない光景として再現しているからだ。それだからか、どの光景にも、写真家の思惑など微塵もなく、ただひたすらヘッセに、そしてシッダールタに近づきたいという、祈りにも似た願いだけが託されているのである。わたしはこれほどまでに撮る者の肉感が消え失せ、被写体そのものに一体化したような写真を見たことがない。
 確かに、一見すると、撮る者の自我が消え失せたような、物我一如を装った写真にお目にかかることはある。しかし、それは、そう装っている分、あざとさが見え見えで、鼻白む思いがするだけだ。だが、竹田武史の写真は違う。そこには、撮るものと撮られるものの区別すら消え失せたような、ただ流転しながら決して動かない、動かずに流転する、大小無数の川のような姿が浮かび上がっているのである。その川面のような光景をじっと見つめていると、無数の、生きとし生けるものの面貌が消えては浮かび、浮かんでは消えていく。その不思議な心象こそ、竹田が写真を通じて語りたかったことであり、それは同時に、『シッダールタ』に託したヘッセの祈りそのものに違いない。
 ヘッセと言えば、すべてを達観したようなモラリストにして、世界的な名声を得た作家というイメージが強いかもしれない。しかし、ヘッセの生涯は、波乱に満ち、ジェットコースターのように、天と地ほどの落差のある人生を生き、時には俗世に塗れ、時には救済の祈りに明け暮れる日々の連続であった。そんなヘッセが敬虔なキリスト者として自らの魂の平穏を希ったとしても不思議ではない。
 ただ、ヘッセは、並のキリスト者ではなかった。ヘッセには、あり余るほどの愛が横溢していたのである。エロスとしての愛ではなく、アガペーとしての愛。この愛こそが、エゴの、自我の、自意識の牢獄から人を救い出してくれることを、ヘッセほど説き続けた作家は他にはいない。その愛の作家、ヘッセの『シッダールタ』は、ゴータマ・シッダールタに通じる、もうひとりのシッダールタの生涯を見事に描き出しているのである。
 幽玄な叙事詩のひとつひとつの言葉が、竹田武史の写真と出会い、詩的言語がビジュアル化し、写真がポエムになる、そんな奇跡的なコラボレーションがこの『シッダールタの旅』で再現されているのだ。それはわたしにとって奇跡そのものとしか言いようがない。
 その奇跡を可能にしたのは、ヘッセの『シッダールタ』に限りない傾倒の念を抱き続けて来た写真家、竹田武史の無心さに違いない。「世界と自分と万物とを愛と賛嘆と畏敬をもってながめる」。そんな写真家がいることにわたしは限りなく慰められている。写真が言葉の真の意味でアートになり、不朽の文学と一体化する瞬間に立ち会える喜びに何度も身が震えるような感動を覚えた作品である。

 (かん・さんじゅん 政治学者)

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