書評
2013年6月号掲載
恋愛という狂気の向こう側へ
――小手鞠るい『美しい心臓』
対象書籍名:『美しい心臓』
対象著者:小手鞠るい
対象書籍ISBN:978-4-10-130977-4
二八〇枚をひといきに読み切ってしまった。読み終えたあと、しばらくぼんやり壁を眺めていた。
見知らぬ男との恋が、まるで自分のこの体の中で始まり、めくるめく逢瀬の数々を経て終わったかのようだった。物語の中では〈その人〉〈彼〉としか書かれていない男の、匂いや重さまでが確かな手触りをもって肌に刻まれ、実際にその男と長い時間をかけて睦みあったかのように、脚の奥に何か挟まっているような感覚さえ残っていた。文中に性愛そのものの描写が多いわけではないのに、とてもふしぎだった。
主人公の〈わたし〉は三十歳目前の若い女だ。うすい化粧、地味な洋服。〈彼〉だけに褒められたい、他の人からはむしろ何の魅力もない女と思われたい。
「どこもかしこもまん丸くて可愛(かい)らしいなぁ。ほら、押せば押し返してくるようなみずみずしい肌や」
「なんでこんなに可愛いんやろ、柔らかいんやろ」
最小限の描写で、書き手は彼女のたたずまいと、その女に溺れている四十男の姿を浮かびあがらせる。
〈彼〉には妻子がある。承知の上で逢瀬を重ねる〈わたし〉は年のわりに老成していて、どんなに夢中になっても常に恋の終わりを見据えている。さて、いったいどこでその彼女の達観に乱れが生じるのだろうと意地悪く読み進めていくと、序盤でいきなり驚かされる。独身と思っていた彼女にはなんと別居中の夫がいて、これがまた鳥肌モノのDV男なのだ。
夫の暴力から逃れて生きる〈わたし〉が、自分を「かわいそう」と言ってくれた〈彼〉に注ぐ恋情は、いたいけで、物狂おしい。言い換えると、純度が高すぎて息が詰まる。
〈何も求めない。徹底的に奪われたい。根こそぎ持っていかれたい。ごみのように回収されたい。すでに多くの幸福を手にしている彼の「もの」になりたい。そうか、まだこんな幸福がひとつ残っていたんだなと、彼に思ってもらえるような小さな幸せのかけらに、わたしはなりたい〉
欲しいものはすでに何もかも手にしているように見える男と、もはや失うものなど何もない女。対極にいる二人が海外出張に出かけるあたりから、物語は不穏に変容してゆく。言葉もろくに通じない中米の小国で、ふいにさらされる危機。そして、ある真実を知ったことをきっかけに、彼女が陥ってゆく狂気。
ふと思い起こしたのは、『シェルタリング・スカイ』の作家ポール・ボウルズだ。彼が描いたのは、旅の途上で異文化との境界線を踏み越えたまま、こちら側へ戻れなくなってしまう人々だった。だが、ある意味、小手鞠氏が描き続けているのもまた、恋愛という狂気の向こう側へ行ってしまったまま戻れなくなった人々ではないだろうか。しかも彼女たちは、知らずに踏み越えてしまうのではない。そこに境界線が、あるいは深いクレバスが、あるとわかっていてなお、自らの意思で一歩を踏みだすのだ。
物語の初めから終わりまで、男の中身はじつは女々しい。それでいながら読者の目にもなぜ愛おしい存在として映るかといえば、女である〈わたし〉の側にそれを見切る賢さと、人生や恋への大きな諦観があるからだろう。
しどけなくひらいた芍薬の花弁に鼻を埋めながら、主旋律がときおりジャズのように暴走する室内楽を聴いているような、そんな印象の小説だった。
いつも思うことだけれど、この作者の小説には中毒性がある。寄せては返す波のような文章にせつなく狂おしく翻弄されるうち、いつしかその甘い苦痛がもっと欲しくなってゆくのだ。
(むらやま・ゆか 作家)