書評

2013年6月号掲載

「密室」を開くための、問いの連打

――大澤信亮『新世紀神曲』

古川日出男

対象書籍名:『新世紀神曲』
対象著者:大澤信亮
対象書籍ISBN:978-4-10-327812-2

 著者の大澤信亮さんは二〇一〇年に『神的批評』でデビューした。この著作を読んで思ったのは「すでに回答がある人だな」ということだった。すでに答えを持っている人。問いを発するよりも、たぶん持っている“回答”のほうに重きを置いている批評家。その意味では、僕とは関係のない人だなとも思った。
 二作めの著書となる、この『新世紀神曲』は、しかしながら僕とは関係があると強く思わせる。
 どうしてだろうか。
 僕は(この僕=評者は小説家である)、たしかに『新世紀神曲』の中で名前や作品が採りあげられている。だから関係している、というのは容易い。しかし、感じたのは別のことだ。この著者=批評家の大澤さんは、暗喩を用いれば密室に閉じ込められている。かつ「そこが密室である」と気づいている。
 ここだ。――ここがポイントだ。
 気づかなければいいのに、と思う。気づかなければ幸いだから。監禁の感覚(認識)を持たない人間は、囚人にはならない。抑圧を感じない。そして大抵の人間は気づかないから、幽閉がもたらす苦痛とは無縁でいられる。もちろん、無意識の水位の下にひたされた思考の領域では相当数が気づいているのだが。
 たとえば生の密室性。たとえば、(たぶんとしか言えないが)批評家業界の密室性。たとえば、(きっとそうなのだろうと思うが)文学世界の密室性――。
 その外側に、出ようとする。あるいは密室を「開こう」とする。そういうことを考える人は、内部にある時に同時に外部にある。すでに二重の視点を獲得している。だが外側からもたらされる言葉は、内側には無益だ。むしろフェイクとしか思われないし、多分に神秘主義と解釈される。
 が、ある種の人間は、それがわかっていてもやるしかない。
 ここだ。――このポイントで僕は、この著者=大澤さんは僕がいるほうの側にいるのだなと感じた。
 それは『神的批評』には感じられなかったことだ。
 二〇一一年のあの三月十一日――東日本大震災――というのが作用している。大澤さんやこの本に。そのことが問いの数を増やした。『新世紀神曲』を読んで思うのは、「かなり問いを連打できる人だな」との手触りだった。軸足が“質問”を発することのほうに移ったと感じた。無意識の次元でも複数・多数の問いがある。それはこの本の構造とも関係している。
『新世紀神曲』には、現代批評論と現代社会論と現代小説論が順に並んでいる。
 ただ、そこから複数・多数の問いが生まれるわけではない。「そこからも」生まれている、としか言えない。現代社会論と目される論考「出日本記」に、“質問”に重きが置かれた要因(だと感じられるもの)がドキュメントされていて、非常に読み応えがある。あの東日本大震災というのは、結局、日本列島を「脱出すべき空間か、否か」の密室として可視化したのだな、とわかる。わかるというか、わからせてもらえたというか。そこから大澤さんは、徹底的に真摯に考えつづける。現代小説論であり表題作となった「新世紀神曲」が、それに続いて収録されている。そこにはこんな文章がある。
〈それに、仮に君の問いに僕が答えたとして、君は、僕と同じように、その問いを生きてくれますか?〉
 たぶん、脱出した先=外側の大澤さんが、「……答えたとして」までを語り、密室の中=内側の状況に絶望している大澤さんが「……生きてくれますか?」と言っている。後者は信じていない。つまり、読者を信じていない。前者は信じている。つまり、読者もまた外側にあることが可能だと信じている。
 この亀裂を埋めようとする時、文章は、極めて表層において聖性を帯びざるをえない。神的、とタイトルに付されただけで敬遠する読者がいるだろうし、今度の著作の“神曲”だってそうだ。
 が、僕は思うのだけれど、聖性は永続を求めすぎるし、(他者に)強いすぎる。時間の彼岸にあるものが、永続かどうか。それはわからない。
 そのことはしかし、考えつづけてみよう。僕は一人の読者として、問いは編み出せた。

 (ふるかわ・ひでお 作家)

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