インタビュー
2013年6月号掲載
『愛に乱暴』刊行記念特集 著者インタビュー
必然性とか衝動みたいなものは
対象書籍名:『愛に乱暴』
対象著者:吉田修一
対象書籍ISBN:978-4-10-128756-0/978-4-10-128757-7
『愛に乱暴』は何小説と呼べばいいのでしょうね。初瀬桃子という主婦が夫に不倫をされる、という設定の長篇小説なんですが、恋愛小説とか、そんな言葉があるのかどうかわかりませんが夫婦小説とか呼んでみても、間違いではないけれど、かなり違う味わいもあるし、内容もはみ出している。ミステリーの要素も大きいのですが、ミステリー小説とも呼びにくい気がする。そんなジャンル不明の小説になりました。
主人公の桃子が、書き手の目から、中々わかりづらい人だったということも原因のひとつかもしれません。今までの小説だと、登場人物の背中のすぐうしろに立っている、ような感じで書いてきたんです。人物の匂いが嗅げ、思考が読み取れるくらいまで接近して書いていた。でも桃子に関しては、二メートルくらい離れて書いたように思えます。
これは僕が桃子に興味や好意を持たなかったせいではなくて、作者が言うのもアレですけど、彼女はすごく気になる女性なのに、うまく理解しきれなかったからです。この小説を書き始めてすぐに、(あれ、彼女のことを理解できない)と気づいた。ということは、心情を書くと嘘になるわけだから、彼女の行動だけを追っていこう、と決めたんです。だから、例えばチェーンソーを買う場面でも、「何か気になって」というような心理を書かずに、ただ買う、という具合にしていった。おかげで、なぜ彼女がそんなものを買うのか、作者も深くわかっていないのだから、けっこう怖さが出た。「あ、このひと、チェーンソーを持って帰って、まず畳を切るんだな。怖いな」と桃子を追いかけながら、その場その場で作者も知っていく、そんな不思議な書き方になりました。もちろん、なぜ畳を切って、その次にはなぜあんなことをするのかという漠然たる理由は作者も持っているんですよ。でも、何と言うのか、必然性とか衝動みたいなものは作者ではなく、登場人物のそれを使ったのかもしれません。
一方で、桃子の旦那である真守のことはわかるんです。彼の性格や思考は想像できるから、かえって僕にはそれほど魅力がないし、あまり書くことをしなかった。桃子で一番わからなかったのは、なぜこの程度の男を結婚相手に選んだのか(笑)。
だから、やはり恋愛や夫婦関係がテーマではないんでしょうね。いろんな方向から、〈桃子の居場所〉あるいは〈居場所のなさ〉を書きたかったのだと思います。小説を書きながら桃子と長く付き合ううちにわかってきたのは、彼女は「全てには理由がある」と思ってしまう人なんですね。ここにいる理由、結婚する理由、家を出る理由……「理由なんてないんだ」と思えた方がもっと気軽に先へ進めるかもしれないのに。もうひとつ、地方出身で、仕事をやめ、子供もおらず、夫に不倫された専業主婦として、きちんとした〈肩書〉がなくなったことが彼女を不安定にさせたのかなとも思います。母でも妻でも娘でもない彼女には居場所がなくなってしまう。
桃子が住んでいるのは具体的に存在する街ではなくて、僕が昔住んでいた南荻窪と千歳烏山を足したようなイメージです。この小説の中で、自分に近い人物がいるとしたら、桃子の家近くの安アパートに住む李くんですね。彼は「ゴミの分別ができてない」と疑われるけれど、僕も絶対に疑われてたと思うんですよ(笑)。生活の時間帯やリズムが違うせいで、地域にあからさまに嫌がられていたんじゃないかと。当時は、こっちを嫌がっている人たちを、なんで自分たちが絶対的に正しいと思えるのか単純に不思議に思ってましたね(笑)。夜も早くから真っ暗な住宅街の中で僕の部屋だけが煌々と電気がついて友達が出入りしたりするのですから、「ヘンな人が住み始めて迷惑」と嫌がられて当然なんですけどね。
でも、こっちも歳を重ねてくると、当り前なんだけれど、嫌がる側の人たち、つまり一般的な方に寄っていて、寄ってみれば、そっちはそっちで決して悪い人たちではないし、実はさほど自信を持って暮らしているわけでもないとわかってくる。スカッと割り切れないそんな人たちが、どこの街にも大勢住んでいる。ごく普通のことです。でも、そんな街には居場所がないとふいに気づかされた女性がいたらどうなるのだろう、どんな行動を取るだろう――そんな桃子の戦いがどんな結末を迎えるか、『愛に乱暴』を読んでもらえたらと思います。
(よしだ・しゅういち 作家)