書評・エッセイ

2013年7月号掲載

驚嘆のコンプライアンス破り

――今井彰『赤い追跡者』

田原総一朗

対象書籍名:『赤い追跡者』
対象著者:今井彰
対象書籍ISBN:978-4-10-334171-0

 今井彰。この人物は、かつてNHKのディレクター、プロデューサーとして数々の賞を獲得して、テレビ業界で凄腕として超有名であった。退局後、自分をモデルにした『ガラスの巨塔』という小説で作家としてデビューし、読者をいやおうなく引き込む尋常ならざる文才の持ち主として評価されている。
 今回の『赤い追跡者』も今井自身がモデルの小説で、前作以上の迫力でサスペンスに満ちた刑事小説のように読者をハラハラ、ドキドキさせながら、息をつく時間が惜しいほどぐいぐい引き込む。ただし、主人公は刑事ではなく、チーフディレクターで、しかし刑事以上に強引なやり方で対象に食い込んでいくのである。
 今井がモデルである西悟が、当事者たちの頑強な取材拒否にあって完全に行き詰まっていたエイズの真相究明プロジェクトに参加することになった。
 当時エイズ問題はマスメディアが大騒ぎしていたにもかかわらず、謎に包まれていたのである。
 西が参加するまでのエイズ究明プロジェクトは、いわば下手の見本のような取材をしていた。はじめに、大悪人と正義のヒーローという結論を、根拠もない世論を前提に決めていて、“正義”のためという安直なパターンにはまって、強引で感情的な取材に突走っていたところで取材拒否に遭っていたのである。
 エイズが大問題になり、厚生省がエイズ問題究明特別チームをつくったのだが、その会議の内容、そして決定した対策を全くつかめていなかった。会議には十一人の専門家と役人が参加していたのだが、全員に取材拒否されていた。つまり取材プロジェクトがつくられて一年も経つのに、何一つ取材できていなかったのである。西悟は全く訓練されていないアマチュアチームだといい捨てている。
 取材とは説得ではなく事実を掴むことであり、それは戦いだ、そして戦いには何でもありだ。西はこう確信していたのに違いない。実は私も長年取材を続けてきたドキュメンタリストだが、西に近い考え方をしている。いってみれば取材とは、いまはやりのコンプライアンスをどこまで破るか、破れるかということである。
 この小説の醍醐味は、西のコンプライアンスを破る手口、その経緯が詳細に描かれていることだ。
 西はまず、プロジェクトの名称を変えて、十一人をはじめエイズにかかわった人間たちを褒め讃えるPR番組ということにしたのだ。いわば詐欺である。
 そして、まずエイズ会議で主要な役割を担っていたと思われる学者に、PR番組としてインタビューする。しかも、何とエイズ会議の全容を収録した書類を盗む、そのやり口は、堂々とコンプライアンスを破っている。
 さらにはPR番組ということで、会議の参加者たちに会い、途中で盗んだ書類の記録をもとに次々に相手を恫喝する。これは法律を犯した恐喝の類である。
 さらに、エイズに汚染された血液製剤が日本に導入された事実を知り、その日本支社を策略をめぐらせて恫喝し、ついに決定的な報告書を入手する。そしてこの瞬間に会議のヒーローだった厚生省の課長が最大の悪人に転じることになる。まだある。最大の悪人とされていた、実は被害者の味方であった教授に会うために、彼の女性秘書を結婚するとして騙す。完全な詐欺である。いわば取材の悪魔だ。
 実は、途中まで、私はこれはあくまで小説だと捉えていた。ところが著者の今井彰はNHKで『埋もれたエイズ報告』という番組をつくっていて、大筋はフィクションではなくドキュメンタリーなのである。もっとも、番組では盗みや結婚詐欺や、繰り返しの恫喝、そして闇の取り引きといったコンプライアンス破りは全部隠されている。そしてこの小説では、番組で隠した手口を詳細にさらけ出すかたちにしている。
 今井彰は、NHKでよくぞこのような番組をつくったものである。驚嘆する。そして見事なコンプライアンス破りの経緯を、ここまで書き上げた度胸にあらためて感嘆する。

 (たはら・そういちろう 評論家)

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